道教の教えに従えば,食は気です。我々人間は(心も身体も)気でできていると考えるので,人間を構成する食もまた気と考えます。だから,何を食べるかはとても大切であり,また,食べ過ぎ(過剰)や食べなさすぎ(不足)も良くありません。
というわけで,「食は気なり」。
そうやって,良いエナジー(気)を適度に摂る,というようにイメージを働かせると,自ずと,なんとなく,良いエナジーのものを摂ろうとか,エナジーの摂り過ぎや摂らなさすぎに気をつけるとか,そんな気分になるものです。
気があるとかないとか,実在するとかしないとか,そういうことではなくて(そういうのはどうでもよくて),気という概念もしくは理屈で物事を考えると,分かりやすいし,やりやすいし,説明しやすいし,結果,いろいろと得るものがある(つまりプラスになる),ということですね。
気の考えってのは,だから,損はない。
一方で,じゃあ,気ってなんだろうなと思うに,人間の持つイメージ力みたいなものと合わさって実際の体感として現に感じられる,という現象だとすると,イメージしているのは私で感じているのも私だから,自己内生成された単なる主観的実体です。
そういうものだから,内気功というのはあり得るけれど,他方,外気功ってのは,だから,よく分からないので,どうしても胡散臭くマユツバな感じがします。
しかし,それもまた,考え方の一つだとすれば,別に悪いことではないし,間違っているわけでもない。個を超えた気の伝達・伝導のようなものを,互いにイメージとして共有できれば,成立しうるものかとも思います。あるいは,何らかの物理的効果(攻撃やマッサージなどの力の,物理的生化学的作用)をどう説明するかの問題だとすれば,その場合もまた成立しえます。そういう効果を,「気が伝わったのだ」と表現するかしないかだけの問題だからです。
いずれにせよ,食は気なり,ということで,日々の食事を大切に。
こんばんは。名古屋です。恐縮ですが、コメントさせて下さい。
返信削除「人間の持つイメージ力みたいなものと合わさって実際の体感として現に感じられる,という現象だとする。」というたとえに共感します。
「私」のイメージを肉体内に留めるか、肉体外にも広げるのか、で外気功も納得出来るような気がします。
いずれにしろ、うさん臭いと思った時、私は、五木寛之さんの言葉を思い出しています。「気は役に立つ人には役に立つ。」
ありがとうございます。まさに気感(feeling of qi)ですね。
返信削除