2021年7月15日

現代「只管打坐」講義

藤田一照 2020 佼成出版社

藤田師が曹洞宗永平寺の寺報である月刊『傘松』に連載していた,座禅に関するエッセイ『「只管打坐」雑考』(全60回)を一冊の本にまとめたものです。なので,何かについて系統的に書き下ろしたものではなく,藤田師本人も書いておられるように,その都度その都度(原稿の〆切の都度),考えていることを綴ったもの,ということになっています。ただ,そうは言いながらも,書きたいことは数ヶ月に渡って書いているという具合に,それなりにまとまりがあります。

最後の回(第60回目)で著者自ら,自分が書きたかったことの柱をまとめていますので,それはそれで読んでいただくとして,私が読んで思ったのは,やはり,『現代坐禅講義』のときからそうですが,一貫して身体から入る,身体から読み解く,身体で練る坐禅の話であり,その意味で非常に興味深く面白く読めました。

身体論としても坐禅論としても仏教論としても,藤田師の話は前から好きでよく読んでいますので(要するに藤田一照ファンなので),本書も基本的な立ち位置や主張はこれまでと変わらないのですが,今回読んで一番心に残っているのは,「帰家穏坐」という言葉です。

「帰家穏坐」は坐禅のこと,つまり,坐禅の別名だということです。きっと前から書いていることなんだと思うんですが,今までそんなに引っかかることはありませんでした。しかし,今回読んでいて,この言葉が一番心にじんわり来ました。本や言葉や教えというのは,読む側聞く側に準備ができていないと染み込まないというか,チューンが合わないと伝わらないわけですが,私にとって今ようやく,「帰家穏坐」という言葉がスウーッと身に浸みた,ということです。ああそうだ,坐るって,そういう感じか,そうかそういう感じだよね,うんそうそうそういう感じだ,と。

坐禅というのは,家に帰って穏やかに坐ること,なのです。もちろん,ただ物理的に自分の所有している建物に帰って,そこでただ物理的に坐る,ということではありません。坐禅というのは苦行でも義務でも心のトレーニングでもなく,あたかも一番くつろげる自分の家に戻って,そこでゆったり安心して心地よく坐るようなものなのだ,ということでしょう(私の言葉が足らないので,適切に表現できていないかもしれませんから,藤田師の考えを適切に理解していただくためにも,興味関心のある方は本書を読んでください)。

私は原則毎朝,15分間坐るというのを続けてかれこれ15年ほど経ちますが,ついつい義務的になったりトレーニング的に頑張ったりしてしまいがちです。藤田師の本を読んだり,禅の本を読んだりしてはハタと我に返って肩肘張らないゆったりした自然な坐りに一時的になるのですが,繰り返している内にまた力を込めたり我慢したりするようになってしまいます。そういうときは,面倒だな,早く終わりにしたいな,次のことがやりたいな,と思うわけですが,それこそもったいない時間です。坐禅は,本来,やれば安らぐものだし,実際,ホッとする時間なわけです。

そう思って坐ると,本当に安らぐ。何も「安らごう」としなくても,坐禅ってそういうものだと思って力を抜いて坐れば,15分間はあっという間,なんとも落ち着くホッとする時間になります。でも人間,だんだんとそんなことを忘れてつい,力みはじめ,力み始めると早く終わらせたくなる。なんともせわしない動物です。

そんなことを思うきっかけになって,また坐禅を続けたくなるので,ときどき,藤田師の本や禅の本は,読むべきですね。ハタと我に返るために読む。気づくために読む。だから,ときどきこうして藤田師の本が出るのは,私としては本当にありがたいです。


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