今回の東京オリンピックで,空手の形競技をご覧になった方も多いと思います。空手の形競技がなんとなくああいうものだと知っていた人もいれば,初めて見たという人もいるでしょう。
あれを見て,一般の人はどう思うのだろうか。特には,初めて見た人があれを見てどう思うか,とても興味があります。
知っている人や既にやっている人は,慣れてしまって当たり前に思っているだろうから何とも思わないのかもしれませんが,私はやっぱりどうしても生理的に拒否してしまいます。
まず,演武を始める前に,形の名前を独特なイントネーションで絶叫する点。絶叫することが武術的だとはどうしても思えない。もちろん,「やー!」とか「えい!」とか,技とともに気合いを入れることは,呼吸法として,あるいは,気の鍛錬として意味はあると思います。でも,それはあくまで鍛錬であって本質ではない。気で押す,という面もあるにはあると思います。ただ,声を出すことそのものは武術的に本質的なことではない。むしろ武術的には呼吸を悟れないよう静かにしていた方が敵に勝てる確率は高まるでしょう。
それは,形の演武中にもしょっちゅう気合いを入れる点でも同じです。あんなに怒鳴り過ぎたら,声が嗄れたりするでしょうね。そして,その絶叫するときの表情がまた凄まじい鬼の形相です。あの顔芸は武術的に必要でしょうか。もちろん,顔にビビって相手が怖じ気づく,という効果は現実的にも多少はあろうかと思います。でも,それは武術的に本質的なこととは,やっぱり,思えない。
それから,特に女子選手に見られましたが,なぜ,特別な「化粧」をしたり,髪型を特別に調えたりするのか。化粧は武術に必要なのでしょうか。技の優劣を競っているのだとしたら,普段通りの格好で競技をすれば良いのに,なぜ見た目を装飾するのでしょうか。
と,ここまで書きましたが,理由ははっきりしているので,あえて意地悪に書いています。理由は,「競技」だからですね。競技はスポーツですから,審判がいて,判定をします。判定する審判は,<見た目>で判定します。だから,見た目で分かることをしないと勝てないわけです。その結果,声を出す,表情を出す,化粧をする,ということになります。目と耳ではっきり分かることをしないと,審判に伝わらないからです。それが,絶叫や顔芸や化粧という結果になるわけですね。
----------
空手という沖縄伝統の武術は本来,絶叫したり顔芸したり化粧したりする術ではありません。呼吸とともに身体を操作し,最小最短の力で敵を制する術です。その術の結晶が形です。形を運用するためには,無駄な力を抜いて,柔らかく動かなくてはいけません。ときに絶叫したり力んだりすることもあるかもしれませんが,たぶん,本当の達人は絶叫したり力んだりしないはずです。静かに敵を制するはずです。それが「君子の拳」だと思います。
オリンピックの形競技を見て,ああいうのをやってみたいなぁと思う人は,「スポーツ空手」「競技空手」の道場や教室に行けば,やれます。普通の町道場はどこもスポーツ空手(競技空手)です。
沖縄の伝統的な武術である空手はやってみたい,特に形をやってみたいと思うけど,絶叫したり顔芸したりしなくちゃいけないのは嫌だなぁ(競技はしたくないなぁ)と思った人は,我が稔真門にお越しください。稔真門代表(総師範)の小林真一先生が,本来の糸東流空手術としての形を,ゆっくり丁寧に教授してくれます。
「糸東流空手術 稔真門」公式ウェブサイト
道場は今(2021年8月現在),コロナ禍のために,柏市の旭町道場(JR柏駅から徒歩15分ほど)でしか開いていませんが,コロナが収まれば,上野などでもやっています。お近くの方,通える範囲の方,是非一度,体験に来てください。いつでも大歓迎です。
形をじっくり丁寧に練る,そして,その形の運用方法(糸東流では「分解」と言います)をじっくり丁寧に練る,そういう道場は私の知る限り,ほとんどありません(ほぼ皆無と言っても良いかもしれません)。世の中の大半の道場が,オリンピックでもご覧になった「スポーツ空手」「競技空手」です。その点,我が稔真門は,沖縄の伝統武術としての空手を稽古する「武術空手」「武道空手」「古流空手」という位置づけになろうかと思います。空手という武術の本質を,ゆっくり味わってみたいという方には,稔真門が合うと思います。
----------
もちろん,スポーツや競技を否定するつもりはありません。スポーツ一般は大好きで,アスリートという存在には尊敬の念を抱きます。その特定のスポーツという枠組みの中で自己の身体を最適になるよう鍛え上げ,勝負に勝つために精神を集中し,互いに技を競い合うその美しさは,神々しささえ感じます。そして,空手の形競技では,男子は喜友名選手が金,女子は清水選手が銀を取ったことは,とても素晴らしいことだと思います。しかし,それはあくまでスポーツ競技の中のアスリートとして尊敬するということであって,一方で,あの競技としての形が空手の本質を体現したものだとはどうしても思えない,ということです。
いろいろ意見や観点があって然るべきであり,何が正しくて何が間違っているという絶対的な話ではなく(だから,間違いを正すべきだとかそういう話ではなく),おそらく,あくまで主義あるいは価値観の違いだと思います。私は,空手に関してはこういう風に思います,ということを書きました。この辺り,詳しくは拙著『空手と禅』に書いていますので,ご興味のある方はご一読ください。
さて,みなさんはどう思われますか?
0 件のコメント:
コメントを投稿