2018年9月13日

求道者

「つくば心身技法研究会」という研究会を,毎週水曜日の夜に続けてきて,丸4年が経ちました。この9月から5年目に入っています。

そもそも最初なぜ立ち上げたかと思い返せば,ハワイから帰国して,一人でマインドフルネス瞑想を実践し続けても良かったのですが,いろいろとあれこれ試したり研究したりしながら実践する場があれば,自分も自ずと実践するし,参加される方も一緒に実践できるし,せっかくハワイでいろいろ教わってきたし,それを何かしらの形で還元しよう,と思ったためです。

なので,こちら(私)が一方的に教えるような形の「教室」や「クラス」や「瞑想会」ではなくて,あくまで「研究会」としました。まぁ,教えるほど自分も分かっていない,というのもありますし,とりあえず大学内での私的な会だから「研究会」と称しておく方が無難かなと思った節もあります。

しかし,そうは言っても,結果的には,主催して主導していくので,私が考えたやり方や試したいことをほぼ一方的にやっていることに変わりはありません。カルチャーセンターやフィットネスクラブのクラスと,見た目には同じです。となると,カルチャーセンターで私が開講している有料の「マインドフルネス教室」と,毎週水曜日にやっている無料の「心身技法研究会」は一体何がどう違うのだろうかと,ときどき思っていたりもしました。

そんな風に思っていたのですが,昨日,研究会の帰り際,ハタと気がつきました。

「心身技法研究会」に来られて,しかも,長く継続的に来られている方は,いずれも,自己への探究(探求)をされている方だと思ったわけです。まさに,私がこの研究会を立ち上げた意図に沿った形で,一緒に(私の考案したルーティンに従って)瞑想していますが,あくまで自己の問題として,自分自身の心身の研究をその場でされているわけです。つまり,一緒にやりながらも独立した研究者,ということです。

一方で,一回きりで来なくなったりする方も,この4年間で何十人と数え切れないほどいました。数回は来たけれどもその後来なくなった方もおられます。もちろん,通うのが難しい,時間的に都合が悪くなった,自分の考えや趣味趣向と合わない,そもそも湯川と合わない,などなどいろいろ理由はあろうかと思います。ですので,一概には言えませんが,長く続かない方は,自分自身で主体的に自己を探求する場としてではなく,カルチャーセンターやフィットネスクラブの「教室」や「クラス」のように,私が何かを与えてくれる,施してくれる場だと思って来られたのかもしれないなぁと思いました。

カルチャーセンターやフィットネスクラブは,有料ですから,お金を支払って,クラスを受講するわけです。となれば,その支払いに見合ったものをいただく,と考えるのは当然です。ですのでどうしても,与えてもらう,施してもらう(さて,このクラスではどんなものがもらえるのだろうか),という意識になりやすいですし,そもそも,そういう意識で意図的に受けておられる方もいると思います。それは間違いではありません。マッサージを受けるのと同じ感覚です。

加えて,その場合,どうしても即時的な効果効用を求める意識にもなりやすいかもしれません。お金を支払っているわけですから,その場で何らかの効果を実感したいとなります。それは極めて真っ当な感覚だと思います。スーパー銭湯と同じです。


ですが,マインドフルネス瞑想というのは,本質的には,そういうものではありません。


もちろん,私のカルチャーセンターでの教室に来られている方が全員そうだというわけではありません。自己探求の方法を学びに来ている意識の方もおられます。また,「参加して気持ちが良かったです」という感想をいただくのは非常にうれしいですし,やった甲斐があります。しかし,マインドフルネス瞑想は本来,そういう短期的直接的な気持ちよさ(を他者から施されること)を求めるのとは違うところをやろうとしている営みです。それは,自分による自分の探求です。自己を習ふ,ということです。

自己を探求することは,必ずしも常に気持ちの良いものではありません。単に心身ともにスッキリしたいだけであれば,他のスポーツやフィットネス的なヨガや健康体操的な太極拳でも良いわけです。そうではなく,瞑想しようということですから,本来的には,自己存在についての果てしない研究,私とは何か,心とは何か,世界とは何かの探求です。ただ,副次的効果として,意図せずスッキリ感やリラックス感が得られることがあります。それもまた瞑想という営みの一側面です。

この辺りが(意識的にも無意識的にも)分かっていて,根本的なところで自己を探求している人が,「心身技法研究会」で長く続けて来られている方なのだと,そう思いました。私(他人)から与えられる施してくれることを期待するのではなく,瞑想を通じて自分で自分を探求している人です。つまり,<求道者>ということです。

昨日,そう思いました。

2 件のコメント:

  1. お世話になっております。ご推察の通りだと思います。これまでお金を差し上げることはありませんでしたが、ある意味では先生を媒体として自分自身に反映されることを探しに出向いています。

    先生のお手元には何も残らずに申し訳ありませんが、出向くにも往復のコストがかかっていますから、いつも少しでも何かを得て帰ろうという気持ちです。そのせいか、いつも新しくて古い何かを得ている気がします。

    求道者として先生の背中を追いかけつつ、自分の背中を押している何かを感じています。

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  2. 有り難いお言葉に感涙しております。自己の探究、と口に出すと何やらたいそうで堅苦しいですが、突き詰めればそうなのかもしれません。でもあの時間はとても軽やかで、何かをしなければ、と思わせる窮屈さがなくて、それでいてマインドワンダリングしないのはなぜなんだろう?といつも感じています。湯川先生が作り出されている「場」が特別なのだと思います。これからもよろしくお願いいたします。(^^♪

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