2014年10月27日

マインドフルネス学会

昨日,日曜日,日本マインドフルネス学会の第1回年次大会に参加してきました。理事長の越川先生,副理事長の坂入先生,理事の藤田一照先生,杉浦さん,義徳さんなどなど,よく知ってるみなさんが壇上に登られご活躍で,とても楽しい一日でした。幹事の石井先生ともお会いできました。

マインドフルネスは仏教修行の中核であり,また,ヨーガの中核でもあり,だからカバットジンのマインドフルネス瞑想にはハタヨーガが含まれていて,会場には心理学者に限らずそういう意味でいろんな分野の方が集まっておられました。

ざっくりといえば瞑想なので,身体技法であり,そういう意味ではみなさん,身体に興味関心のある人たちの集まり,ということになります。マインドフルネス瞑想が心の技法だと思っている限りは本質的なところには辿り着けない。そんな人はあの会場には来ていないと思いますが,瞑想は心身一如的な(こうして心身と言う時点で二元論的ではありますが)一元論に基づく,心身技法(身心技法)であり,きっと,武術・武道に対する親和性も高いのではないかと思うのです。

が,残念ながら,そういう人はあの場では前面に出てこない,というか,武術家が壇上に登ったり,紹介されたりすることはありませんでした。唯一,藤田先生が武術・武道への理解があるぐらいでしょうか。

たぶんそれは,武術・武道に対するそもそもの印象が良くないのかもしれない。マーシャルの部分に宿る野性的な,暴力的な,闘争的な感じが野蛮さを醸し出すのかもしれません。しかし,太極拳を例に挙げれば,見て目からしてそれほど野蛮ではないから,そのうち,マインドフルネス学会で太極拳も取り上げて欲しいなぁと,そんなことも思いました。マインドフルネス学会に参加していたみなさん,拙訳書『タオ・ストレス低減法』を是非,お読みいただければ光栄です。

ただまぁ,そう思うと,やっぱり,弓道や居合道や剣道なんかは明らかに殺傷能力のある武器を使うし,合気道や柔道なんかは人を投げるし関節を極めるし,空手や少林寺拳法なんかは人を殴ったり蹴ったりするし,まぁ,どれも殺伐としていて,野蛮と言えば野蛮です(笑)。

しかし,そういう野蛮な術を現実生活の中で使うことはないし,そもそも使うことも想定していないから(仮に積極的に想定している人がいれば,その人はいわゆるケンカ屋というかストリートファイターですから,武道家ではありません),武道の稽古は必然,稽古そのものが目的であり,そうなるとそれは結果的にマインドフルネス瞑想と同じになります。他のスポーツは試合が目的ですが,そうでないのが武道だからです。

と,この辺りは拙著『空手と禅』に書いてあるので,興味のある方は是非。

2014年10月20日

ソマティック

都内で開かれた,とある協会の発足記念フォーラムを覗いてきました。

『タオ・ストレス低減法』を献本させていただく縁で,この協会の運営委員もされているロルフィングの藤本靖さんにご挨拶させていただいた。とても爽やかで柔らかい感じの(それでいて内なる力強さをひしひしと感じる),魅力的な方でした。

それから,約1年前ぐらいでしょうか,『秘伝』誌上で対談させていただいた,曹洞宗の藤田一照先生にもご挨拶してきました。藤田先生はこの協会の顧問をされておられ,この日も確か「教育講演」なるものをされてました。お話はいつも魅力的で面白いので,つい引き込まれて聞き入ってしまいます。

この協会は,『ソマティック心理学』を著した久保隆司さんというカウンセラー・ボディワーカーの方が立ち上げた協会で,主には(今のところ)ボディワーカーの方中心の集まり,のようです。

しかし,一日講演者の方々の話を聴いていて,また,集まってきているオーディエンスの方々を眺めていて,世の中には色んなところでいろんな実践をされている方が本当にたくさんいるなぁと,つくづく思いました。

2014年10月16日

空手と太極拳 その二

以前にも空手と太極拳について少し書きました。昨日の研究会(後半)で両方やりましたが,身体感覚としては,両者はやっぱり違います。

空手は外側からも見える筋肉を使って(もちろんインナーマッスルと言われるようなところも使っているのだろうけれど),呼吸とともに身体を締めます。受けたり突いたりするときに締めます。締めるということは,筋を緊張させるということ。また,力あるいはエネルギーを身体の中心軸に集めます。そしてその集めたエネルギーを相手(敵)に出します。このとき,呼気とともに出します。口から息を吐きます。受けるときも突くときも,筋を瞬間的に緊張させて,エネルギーを相手にぶつけます。そうしないと,相手の強い攻撃を受け切れないし,そうすることで,相手に効果的にダメージを与えられる。空手はそう考えます。

一方で,太極拳は,使う筋肉は太股ぐらいで,後は全身リラックスして行います。もちろん,受け流したり推したり蹴ったりする動作のときも,身体を締めることはありません。太股以外は筋を緊張させない。力あるいはエネルギーは全身に万遍なく循環させます。呼気は鼻から出すので,そうすることでエネルギーが身体内に蓄積される感じになります。つまり,気を外に出さないわけです。技も多くは受け流して推す,という柔らかい動作が多い。強く受け返して強くダメージを与えようという空手の理念とは,だから,違うわけです。

さて,現実的には,手足の届く距離で瞬間的に相手の攻撃を裁こうとすれば,ガチンと攻撃を受けなければならないことが多いと考えると,空手の術の方が断然,至極まっとうなアプローチですね。素早く突いてきたり蹴ってきたりする相手を体裁きで柔らかくかわすのは,アクション映画なら成立するけれど,現実場面でそんなに綺麗に上手くいくとも思えない。実際試しに突いてもらうと分かります。

ただ,柔らかくかわす術も持っていることは,体術として確実にプラスになるようにも思う。現実には難しいけれど,柔らかく受け流し推すことを知っている身体で動くことで相手のバランスは崩れ,より効果的にダメージを与えるために有利な体勢やポジションを得ることができる。そんな気がします。

空手は白鶴拳や詠春拳といった少林拳に端を発する南派の外家拳系統の術であり,太極拳はいわゆる内家拳だから,身体操作の方法が陰と陽の関係のように,異なっています。だけれど,ここのところをうまく融合していく,身体的(実践的)にも理論的にも統合していく。そんなことができないかと,できるのではないかと,できるはずだと,日々,考えています。

日々考えているせいで,だから,研究会(や授業)では,毎回,言ってることが変わるかと思いますが,どうかお許しを。

2014年10月11日

動いて感じて考える

昨日は,朝に学部で,夕方に大学院で,身体技法の授業を行った。気功や瞑想やヨーガ,それから太極拳。みなそれぞれに,おそらくはなんだか良く分からないまま,とにかく身体を動かす。

腹式呼吸法
無極で立つ法
スワイショウ
八段錦
開合と站椿(立禅)
楊式太極気功
歩行瞑想(歩禅)
静座瞑想(坐禅)
死体のポーズ(寝禅)
楊式太極拳(八式)

授業なので,各エクササイズごとに,用意したレポート(実習ノート)に,感じたことや考えたことを書き込む。書いている内容そのものももちろん重要だけれども,それよりも,感じたこと・考えたことをとにかく自分なりに紙に記す,という作業そのものがより重要。

感じたこと考えたことを「書く」と,遠藤卓郎先生も,サンティ先生も,言っていた(特に強調していた)ので,これにならって僕も授業で採用することにしました。実習ノートは,遠藤先生からいただいたノートを参考に作成。

身体技法なので,まず動くこと。そして,ただ動くだけでなく,動きに伴って生じる心身の様々な微細な変化を感じること。そして,ただそれらを感じたままではなく,それについて考えること。でもって,これらを文字にしてノートに書き記すこと。こうして文字に記しておけば,自分で後から見直すこともできる。

みながみな,こういう身体技法にピンと来るわけではないでしょう。それは,普通の講義や演習の授業でピンと来ないのと同じだと思う。まぁしかし,学生たちには,授業としてとりあえず,10週,お付き合い願えればと思います。

2014年10月8日

タオ・ストレス低減法

サバティカルでお世話になったシャミナード大学のロバート・サンティ先生が書いた本 The Tao of Stress を私が日本語に訳した,『タオ・ストレス低減法』が,今月下旬に発売になります。出版社は北大路書房です。すでにamazonでも予約可能になっています。11月初旬には書店に順次,並びます。

副題は,『道教と気功による心身アプローチ』です。半分は道教に基づく精神的(心理的,認知的)アプローチ,半分は気功実践を中心とした身体的アプローチです。ストレス低減に向けて,精神的身体的両方を一緒にやるのがミソであり,その結果,心身の健康とウェルビーイングが促進されます。

私の中では,前著『空手と禅』に続く,武道・武術系身体心理学第二弾,という位置づけです。

日本語版には,最後に約1章分,私の「訳者解説」が付いています。お得です(笑)。本書の本文を読む前に,まずはそこから読んでいただく,というのでも良いかもしれません。

みなさん,お手元に一冊,是非どうぞ。

2014年10月4日

授業

昨日,学部の授業と大学院の授業がそれぞれありました。10月から始まる秋学期(後期)の初回オリエンテーション。午前中に学部,午後夕方に大学院。

それで,どちらも,身体技法をやることにしました。正式な科目名はどちらも「臨床社会心理学」ですが(学部はこれに「演習」と,大学院は「特講」と付きます),他の言い方をすれば身体心理学実践実習。というか,見た目はほとんど体育(笑)。身体を通して臨床社会心理学的な種々のテーマを<実践的に理解>する,ということが目標。

果たして学生はみんな,ついてこられるか。いやまぁしかし,どんな授業でもついてこられる(こちらの意図に沿って理解をちゃんと深められる)学生とそうでない学生はいるので,全員ついてこられないとしてもそれは不思議ではないけれど。

心理学に限らず,大学の授業は,机に坐って,教科書や資料やレジュメとにらめっこし,最近では先生や発表担当者のパワポの電子紙芝居をぼんやりと眺めながら,あれこれ考えたり質問したり答えたり,あるいはうとうと寝たりする,ってのが普通の一般的な風景ですが,他の授業が全部それだから,僕ぐらいはヘンテコな授業をしても面白いだろうと思って,すっかり見た目は体育な授業。昨日,学部の方は,お試しに軽く身体を動かしました。

しかし,なんていうか,机にずっと坐って話を聞いているのはどうもすぐに眠くなるようで,得てして学部学生だけれど,通常の講義や演習だと,狭い教室の中でどんなに近距離で話をしていても,1割は必ずうとうと寝てます。いや2割かな(笑)。(大学院の授業で寝るヤツは,あんまりいませんが,皆無ではない)

まぁ,よっぽど僕の話が眠気を誘うほど退屈なのか,はたまた僕の美声が心地よい子守歌に聞こえてくるのか分からないけれど,よく寝るね~しかし,若者は(笑)。そんなに眠いなら,寝て良いよ。おやすみなさい。安らかにお眠り。きっと,夜な夜な寝ないで深夜バイトや遊びに夢中なのかもしれないからね。

だから,身体を動かし続ける今回の授業形態では基本的に,寝る学生はいないことになります。いや,ただ,坐禅や死体のポーズもやろうと思うので,そのときはリラックスして,寝るだろうな,きっと。それはそれで,まぁ,良いことではあります。

2014年10月2日

目を閉じる

さっき,自分の武道論のブログで,目を閉じて稽古する,というようなことを書きました。その方が身体感覚を鋭敏に察知できる,と言う話です。

坐禅の場合,「半眼」というのがあります。目を開けているような開けていないような,まぁ,実際はうっすらと開けているわけですが,何かを見ようとして見てはいない状態です。うすぼんやりと漠然と目を開けている,そんな感じ。曹洞宗の藤田一照禅師は著書『現代坐禅講義』の中で,確かそれを「マジックアイ」と称していました(なお,その意味については,是非,『現代・・・』を参照ください)。

目を開けていると,視覚情報がありますから,そこからあれこれと思考や感情が連想的に湧き出てきます。それをしないために,何かを見るようで見ていることなく,開けているわけです。これ,面壁しても,思考や感情が湧いてきます。内山興正禅師の言葉で言えば,まさに脳の分泌物。

僕の場合は,いつも自宅の部屋で壁を向いて坐るのですが,その,白い壁紙にはよく見ると模様や筋や肌理や傷があって,その微妙な陰影からロールシャッハのように物が浮かび見えてくるのです。

じゃあ,なんで目を閉じないんだ,という話になるわけですが,目を閉じると,場合によっては,眠くなってしまうからだというのが理由の一つでしょうか。だいたい,坐ってるという状態は,身体的には微動していますが大きくは動かないので,概ねじっとしていることになります。ここに腹式呼吸をしますので,深いゆっくりとした呼吸を繰り返します。やがて呼吸は長くなりますから,かなり深まってきますと,だんだんと眠くなる場合があります。ここで目を閉じていようものならそのまま心地よい眠りの世界へまっしぐら。とならないように,うっすらと目を開けておく,という説明の仕方があります。

しかし,上に書いたようにそれでも目には何らかの情報が入ってきますから,「マジックアイ」であることを維持しないと,視覚で得た刺激を人間は勝手にあれこれ解釈して思考を拡げます。刺激が少ないですから,脳はその物足りない状態を穴埋めしようとあれこれ手を打ちます。こうした作用がきっとあれこれ思考を分泌させるのでしょう。心は,何もしていないときに最もさまよいます。これがマインドワンダリングです。マインドワンダリングしやすい究極の形が,坐禅です。

となると,普通に考えれば,少しでもワンダリングしないように,目を閉じていたいわけです。そういう視覚情報をカットして,身体感覚,つまり,皮膚感覚や深部感覚や内臓感覚に意識を向けたいわけです。まさに,「微細な身体感覚」(藤田一照・山下良道『アップデートする仏教』)に内的な目を向けたい。そうするためには,目を閉じていた方がやりやすいわけです。

無論,何十年も修行している禅僧なら,そうして半眼で坐る方が難しいですから,そうしているのでしょうけれど,僕のような素人は,まずは目を閉じて坐るので十分なような気がしているわけです。だから,最近は,目を閉じて坐ってます。

カバットジンによるマインドフルネス瞑想の各種技法でも,瞑想するときに開けても閉じても良いと書いてあった気がするし,バンテ・グナラタナ師の本(『マインドフルネス 気づきの瞑想』)にも,場合によっては閉じても良いよと,書いてあったような気がする。サンティ先生も目は閉じて良い,ただもし,慣れてくれば半眼で,と言っていた。

ので,まぁ,だから,最近はずっと,閉じて坐ってます。それで,気功をするときも,ときに目を閉じていることがあります。もし,やっぱり「目は閉じない方が良い」という何か説得的な理由が見つかれば,開けようと思うけれども,そうでなければ,こうして目を閉じる方法で良いような気がするので,当面このまま続けようと思っています。お試しあれ。

2014年10月1日

道を譲る

道を歩いていると,向こうから人や自転車がやってくる。歩道が狭い場合は,相手に譲ることにしている。

最近,このときの,譲られた相手の反応をさりげなく観察している。嫌らしいといえば嫌らしいのだけれど(笑),さて,人は,道を譲られたときどうするのだろうと思ったからです。

それで驚いたことに大半は,僕のことを,まさに路傍の石か何かぐらいにしか思っていないように,あるいは,僕が透明人間であるかの如く,まったく無反応で通り過ぎます。じっと前方を見ているか,あらぬ方向をぼんやり眺めるか,はたまたうつむき加減で,通り過ぎていきます。

その人が通り過ぎるまで,僕はじっと待っています。なのに,まったく無反応。

いや,何も,反応して欲しい(礼を言って欲しい),と言っているわけではありません。別に感謝されたいから道を譲っているのではなく,近づいて対面して右に左にと相手と一緒に反復横跳びするのが面倒臭いので,先に譲っておくだけです。

なぜこういうことを思ったり観察したりするようになったかというと,その,4ヶ月間ホノルルに住んでいて思ったのは,向こうの人は,とにかく,赤の他人でも何らかのコミュニケーションを取ることが多くて,それはそれで最初は面倒なんだけれど,慣れると気持ちの良いものだと思っていたからです。道を譲り合ったときには,ほぼ例外なく,礼を言うか何らかの挨拶をする。

で,日本はこういうときどうだっただろうと意識して見てみると,基本,無反応(無視)なんだなと,改めて気がついた,ということ。

日本人は,知っている人と知らない人をはっきり区別するのかもしれない。知っている人には親しくする。一方,全く知らない人は,石と一緒で,人間ではないし,そもそもそこに存在すらしていない。だから,挨拶も礼もしない。石や透明人間に挨拶や礼をする人はいないからね。

でも,オモテナシの国なんですよね,ここ。ああそうか。つまり,知っている人知らない人ではなくて,関わりのある人とない人とを区別するのかもしれない。だったら,すれ違ったときには何らかの関わりが生じているのだから,ちらっと会釈ぐらいすれば良いのにね(って,やっぱり本心は,礼を言って欲しいのね)。

石扱いする(される)よりは,そのときだけ関わりの生じた知らない人であっても,お互い軽く会釈ぐらいする,そういう柔らかい世の中が,良い。ように思う。