2014年12月29日

強さへのこだわり

山田英司氏の『八極拳と秘伝:武術家・松田隆智の教え』を読んだ。感想は書評ブログ「本と知」に書いたけれど,伝わるのはこの山田英司という人の執拗な「強さへのこだわり」である。

誰それが強いとか弱いとか,上手いとか下手だとか,何々流や何々拳は効くとか効かないとか,そういうのはいろんな条件が重なるから一概には規定できないことは明らかなのに,人はなんでそう比べたがるのだろうか。

この人は若い頃,大学を卒業して仕事をしながら,毎日6時間稽古したそうである。山田英司氏と言えば,『武術』『月刊空手道』『フルコンタクトKARATE』である。だから才能あふれる超人的な人であることは間違いない。うううむ,だけど,プロ格闘家でも職業的な専門家としての武術研究家でもないのに,その情熱と動機づけは一体どこから来るのだろうか。今は半ば稽古が仕事かもしれないから,そうなればあまり違和感はない。その生活がそのまま仕事になってるんだから,職業武術家である。

何か稽古をしたらそれを試したいという気持ちは分かる。でも結局,試して実感したからと言って,何か意味があるんだろうか。そのときは少し気分は良いかもしれないけれど,だから何なんだと我に返って考えてみて,何か意味が見いだせるのだろうか。意味なんか見出さなくても良いけれど(そもそも世の中に本質的に意味のあることなんてないけれど),でも僕からすると,強さを試すなんてそんな些細なことはどうでも良い気がするんです。

エンターテイメントとしては,強いとか弱いとかは,面白い。映画だってマンガだってプロレスだって,面白い。ボクシングやキックや総合なんかの格闘技も,見ていて面白い。映画やマンガやプロレスは予定調和だけれど,格闘技の試合を見ていれば,だいたい強い人は強いものの,いつかは負ける。あるいは,ミスとか体調不良とか偶然のラッキーパンチとかでどんでん返しもある。だから面白いという面もあるけれど,だけど強さはだからこそ一概には決まらない,ということを示してもいる。

強い弱い,勝った負けたを決めるのはだから,統制する条件があまりにも多すぎて,本当に強弱や勝ち負けや効き具合を判定しようとしたら,永遠に不可能なわけである。そんな曖昧な条件設定でどうして良い悪いの価値判断ができるのか,僕にはよく分からない。だからそうして強いとか弱いとか勝つとか負けるとかにこだわるのは,無意味とまでは言わないけれど,なんだかとてもむなしい作業に思えてならない。

職業的なエンターテイメントとしてプロ格闘家が強い弱いにこだわるのはよく分かる。それが商売だからです。曖昧な条件でもとにかく闘って,勝った負けた,強い弱い,とやるのがプロだから。それで客が楽しめるわけだから。でも,これをアマチュアがやると,なんだかむなしく思えてくる。アマチュアが強い弱いを競い合って,一体どこに行きたいのか。

もちろんアマチュアでも,目の前の相手に勝つ喜び,その場に限っては強いことが少なくともその相手に対して一時的に証明できる喜び,それ自体は分かる。でもそれはそれで,喜びはいつまでも続くわけじゃない。そうするとまた次の喜びを得ようと・・・という具合に,永遠に尽きない。つまり永遠に満足できない状況が続くわけで,ましてや負けようものなら,ますます気分は悪くなる。勝ち負けや強い弱いにこだわるからそういうことになる。きりがないんです。

でも人はなんでそう比べたがるんだろうかね。比べる理由が分からないということじゃなくて(それは進化心理学的に説明できるからある程度解決しています),そうじゃなくて,人間ってのはどうしてそういう習慣というか癖というか性というか業というか,そういう傾向から抜けられないのかなという,そういう嘆きです。比べたがるのは何も武術的な強弱だけじゃなくて,世の中だいたい他者との比較で成り立ってるからね。だから,嘆きです。自分も含めて。

ご多分に漏れずもともとは強さへのあこがれをもって武術を始めたけれど,今はもう強いとか弱いとかはどうでも良い。それは上に書いたとおり。無意味だと思うから。むなしいから。効くとか効かないとかはまだまだ興味があるけれど,それは術そのものとして興味があるだけで,誰それがその術が上手いとか下手だとかには興味はない。それも無意味だから。

2014年12月21日

アラフォー

40歳を超えて3年,このところつくづく思うのは,どうも30代と比べて身体の仕様が大きく変わったような気がする,ということだ。あちこち痛いし,疲れるし。

女性によく言われる更年期障害だけれど,もちろん,男性にもある。メカニズムは加齢とストレスによる男性ホルモン(テストステロン)の低下らしい。症状としては疲労,不眠,うつなど。だからきっと身体の仕様が変わった感は,こうした内分泌系の変化も原因の一つに違いない。

別に40歳を区切りにがらりと一変するわけではないけれど,分かりやすいからとりあえず「40歳」あるいは「アラフォー」という区切りを使って理解することにして,いずれにしても何となく身体の仕様が変わったような気がする。

だから,それに見合った身体操作を身につけていく必要があるんじゃないか。20代や30代の動きを求めるべきではないし,そもそも求めたところで何の意味もない。20代30代と同じ身体仕様のつもりで生活していると,そりゃあちこち痛めるし,疲れます。この夏にやったギックリ腰も,その一つの現れだ,きっと。

稽古とは,だから,変わっていくものなのだ。稽古の内容は,年齢とともに変わるのだ。50代,60代,70代になっても,20代や30代と同じものを求めていくのは,なんだかとても奇妙だし,根本的に間違っている気がする。なぜなら,身体は変わっていくのだから。

そうして変わっていく技の内容は,思想的技術的な成熟とも言える。そしてそれは,身体的な仕様の変化に柔軟に対応した,心身の変化の現れでもあるだろう。

合気道の植芝盛平翁の技は,若い頃は荒々しかったものの,晩年は徐々に柔らかくなった,というようなことをどこかで読んだことがある(したがって,いつの植芝翁に習ったかで,弟子ごとに技が違う)。これは,純粋に技術的な成熟である一方,その成熟は植芝翁の心身の変化と相まって生じたものに違いない。

そういうタイミングに,流れの中でタイチーと出会ったのは,これもまた何かの縁,まさに武縁です。縁に感謝。

2014年12月15日

コラム

月刊『秘伝』という,武道・武術の専門雑誌で,先月から私のコラムが始まりました。昨日発売の2015年1月号(12月14日発売)が,コラム連載第2回です。


「心理学から解く武道と日常構造」というタイトルで,心理学と武道と日常について,書いています。見開き1ページの小文ですが,興味関心のある方は是非ご一読くださいませ。

2014年12月2日

走る

冬場はつい,手をポケットに入れて歩いてしまう。腕を振って歩いた方が楽なのに,寒くて身体が縮こまる。姿勢も悪くなる。

しかし,依然,足が気になる。特に膝から下。いや,太股から腰まで全体か。筋肉痛のような,疲労のような,痛みのような。特には膝から下。すね。年を取るとこんなものだろうか。それともこういう痛みや違和感は誰でも感じるものであって,そのことに意識を向けるからそう感じるだけなのだろうか。

色々歩き方を試している。一日終わって疲れるときと,痛いときがある。そこのところの弁別をクリアにしていって,要因を絞り込んでいく。

とりあえず,手袋でもして,腕を振って歩いた方が,良い。腕を振って歩く。スワイショウウォーキング。

しかしそう思うと,一度,ウォーキングの教室で,歩き方を教えてもらいたいなと,思う。それに,そもそもジョギングでもして,少しぐらい走った方が良いような気もする。だんだんと走れなくなってるような気がする。気がついたら生活の中で走ることはほとんどない。走らなくなったから,歩くバランスも悪くなっているのではないだろうか。

走ろうか。動物なんだから,少しぐらい走った方が良いんじゃないか。

2014年11月24日

分析的に動く

笠尾楊柳(恭二)先生の著書,「太極拳に学ぶ身体操作の知恵」(BABジャパン)を読んだ。2009年の本。もうすでに多くの太極拳家や武術家が読んでいるんだと思う。

随所に良いことが書いてある。書評にも書いたけれど,太極拳をやる人はもとより,武術をやる人は,読めばどこか一つはきっとためになる。そんな本です。

僕がここは良いなと思ったところの一つが,ゆっくり動くことの利点。緩慢に動くことで,分析的に技を練ることができる,と言う話。技の起こりから極まるところまで,丁寧に練ることができるので,その中で動きの無駄を削っていき,技を精錬させていくことができる。

そう。その通りなのだ。この感覚が今まで上手く言葉にできなかったのだけれど,こうして言葉にされていて,とても納得。そう。これはマインドフルネスなのだ。

太極拳はだから,マインドフルに分析的な武術なのです。全身の身体感覚の微細な流れに万遍なく意識を向けた,高度に分析的な身体修練法なのですね。

空手もだから,サンチンの感じで,ナイファンチを練るのも良い。サンチンも,締めないでやってみる。テンショウもゆっくりやる。スピードやリズムを変えてみる。粘るように練ったり,力を抜いて動作したり。あれこれやってみる。

空手には他にもたくさん形があって,それぞれに良いけれど,突き詰めるほどに,他には要らない気がする。原理的に極まっているこの3つ,結局この3つで良い気がする。この3つの形を,いろいろなリズムやスピードで分析的に稽古する。それだけで十分楽しいし,それだけで武術的にも十分な気がする。

2014年11月19日

推手

太極拳には,推手,pushing hands (push hands) という稽古がある。

中国にはその競技もあるらしいけれど,何でも競技にすれば良いってもんじゃない。確かに競技にすればそれをする人が増えて,普及には役立つだろうけれど,youtubeを見る限り,手を掴まないルールの単なる相撲にしか見えない。

ああして,実際に他人とやりあって,何かしらの手応えを感じたいのだろうけれど,まずもってルールが微妙な気がしてならない。どこがどう推手稽古の成果なのか,あるいはどの辺りが推手の威力なのかが,見た目では全く分からない。なのに審判がいて勝ち負けの判定をしたりしているということは,何かしらルールがあるのだろう。そしてそのルールは,推手の技術の高低をきちんと判断できる基準なんだろう。そうでなければならない。しかし,そうなっているようには,どうしても「見た目には」思えない。

あと,推手の表演競技(二人で行う演武競技)というのもあるらしく,これもyoutubeで見ました。まぁこれは,こうして人に見せるために日々稽古するのが稽古になっていて,それはそれで良いと思う。だけれど,その善し悪しを試合(大会)で「競う」という発想が,何とも違和感を覚える。何でもかんでも競技にすれば良いってもんじゃない。どうして人はそんなに他人に見せたり,競い合ったりしたいのだろうか。勝ち負けなんてどうでも良い気がするのだけれど。やっぱり,何かしら手応えというか手がかりというか,明確な評価のような,そういうものを感じたいのだろう。

そういう,競技どうこうではなく,本来の稽古法として,推手は良い。ように思う。というか必須な気がする。ホノルルにいるとき,スティーブやロバートには習わなかったから,ちゃんと習ってみたい。

ただ,空手にはカキエという稽古法があり,これは英語でpushing handsとかhooking handsとか訳されたりしています。おそらく,やろうとしていること,目指していることは同じです。詠春拳にも,チーサオとかありますね。

二人で行う稽古だから,相手がいないとできないけれど,お互いの気(力具合と意思)を感じる,優れたエクササイズな気がするから,推手でもカキエでもチーサオでも良いから何かしらの形で,やりやすい方法で,取り入れていきたい。

2014年11月14日

歩く2

ロルファーの藤本靖さんの本を読んだ。『引っぱって,ゆるめて疲れない身体になる方法』。書評は,「本と知」のブログの方で。

さて,本書に,歩き方について書いてあった。グッドタイミング。さて藤本さんは,疲れない歩き方をどう考えているか。詳しくは本書を見てもらえれば良いのだが,結論を言うと,「でんでん太鼓」のように,手を振って歩く,である。

でんでん太鼓。

そう。でんでん太鼓と言えば,スワイショウです。そうか。そういうことか。
要するに歩くのを,スワイショウだと思えば良いのか。スワイショウウォーキング!

確かにスワイショウは,体軸を中心に据えながら,体幹の筋を使ってバランスよく振ることが求められるし,また,そこんところが鍛えられる,非常によくできたシンプルで奥の深いエクササイズだ。この,スワイショウを歩きながらやるつもりで良いのかもしれない。

藤本さんは,もちろんスワイショウとは書かずに,でんでん太鼓のように,と書いているだけですが,良いヒントになりました。試してみる価値ありです。

なお,前回書いた,足を上げながら行進するように,というのはどうも間違いでした。疲れないけど,かなり意識しないと歩けないし,そもそも,なかなか前に進みません(笑)。

基本は足(足首以下)は真っ直ぐに,というのは正しい。それにもう一つの基本は,やはり後ろに蹴り出すのが良いみたい(推進力は出ます)。でも,あんまり「蹴り出そう」と意識しすぎると,これまた疲れます。ふくらはぎと裏ももの筋肉が張ります。だから,その場合はもう少し柔らかく,優しく,穏やかに,自然に。

これにスワイショウを加えて歩いてみよう。スワイショウウォーキング。(と思って検索したら,やっぱり,そのまんま「スワイショウウォーキング」と表現して実践されておられる方がいました。)

なお,ネットで検索するに(とある本にも書いてあったりする),「太極拳歩き」とか「タイチーウォーク」というのもある。ただこれはまたこれで,どうもちょっと違うものを指しているようなので,またいずれ,調べます。

いろいろ広がるなぁ。

2014年11月12日

歩く

つくづく,歩くというのは難しい。どういう歩き方が,本来,人として正しいのか。

小笠原流にあるように,足(足首から下の部分の足)を真っ直ぐ(両足を並行)に出す,というのは一つ,これはまず間違いない。足を外に開いて出す歩き方は,足の甲(外側)と脛(外側)を痛める。一方,足を内に閉じて出す歩き方は,膝(内側)を痛める。両方意識的に試してみて確認したから,たぶん間違いない。

ちょうど良いのは,やはり真っ直ぐ並行に足を出すことだ。

それでもまだ僕の歩き方は,足がだるくなりやすい。

どうも靴の踵が相変わらず減っているようなので,昨日から試しに,意識的に少し大腿(股)を上げる(結果的に膝を上がる)ようにして歩いている。見た目には(あるいは感覚的にも),若干,運動会の時の行進のような感じになっている。

これで良いのかどうか分からない。

ただ,もう少し股の筋肉,特に内股(股間)と腹の筋肉を使って,足全体を引き上げながら歩いてみようと思う。

これもまた実験。試行錯誤。歩くのは実に難しい。

2014年11月6日

空手の武術性

先週末,宗家の元を訪れ,いつも以上に増してじっくり空手に向き合う機会をいただき,改めて空手とは何かを考えるきっかけとなった。というのも,一方で気功・瞑想・武術(太極拳と空手)の研究会をしていて,空手の位置づけというものを常々考えていたからでもある。

空手は武術性が強い。太極拳に比べると,という話ではあるけれど。

スワイショウや八段錦や開合や站椿などの各種気功の技法は,太極拳と相通ずる,というかこの辺りは根っこが同じなのか歴史的に融合していてきたのか分からないけれど,基本的に同じ身体操作をしている。いずれも,気を練る体感は同じです。動作や呼吸のリズムあるいはスピード,流れが同じだと言っても良い。練ろうとしているところも目的も,概ね同じです。だから,気功をやってその流れで太極拳をやるのは,極めて自然な感じで,身体的になんら違和感がない。

気功や太極拳はだから,坐禅(蓮の花のポーズでも良い)や寝禅(死体のポーズでも良い)とも,動かないというだけでリズムや気の流れは同じだし,この行為によって行こうとしているところ,しようとしていることは,概ね同じです。だから,太極拳の後に坐るのもまた,とても自然な流れで導入しやすい。

しかし一方,ここで次に空手となると,身体的な感覚として違和感が,どうしても拭えない。空手は外家拳です。つまり,外的な筋肉を使うし(もちろんインナーマッスルと言われる部分も大いに使うけれども),強く気を吐くし(中国武術的には「勁」を発するし),そもそも太極拳のようにゆっくり柔らかく動かない。息と言えば,気功や太極拳や瞑想では鼻で息を吐くけれども,空手では口で息を吐く。

太極拳は緩く柔らかくリラックスすることを求め,鼻で息をすることで気を体内に貯める。一方空手は力強く技を出すことを求め,口で息をすることで気を体外に発する。どちらも呼吸重視ではあるけれども,そしてどちらも武術ではあるけれども,理論が違う。闘うための理合が違う。

武術家としては,内家拳と外家拳,つまり,internal martial artsとexternal martial artsの両方を稽古することはたぶん,大いに意義があり,だから個人的には非常に有意義である。また,武道家としても,両者は,いずれも一人稽古であり,マインドフルネスを養うに十分であるから,これもまた個人的には矛盾はない。

しかし,これを他者に教えるとなると,話は違ってくる。研究会で求められるもの,あるいは授業で行う身体技法として提供するもの,という観点で行くと,気功と瞑想と太極拳には一貫性があるけれども,空手をここに含めると統一感が無くなる。

それは,空手の持つ剥き出しの武術性が理由のような気がする。

空手は,特徴としてはやはり,打撃でもって(それもできれば一撃でもって)相手を制する術です。投げる,押す,倒すも術にはあるけれども,握った拳骨(ティジクン,鉄拳)でもって,相手になるべく強い衝撃を加えることを目標とする。

ここに何とも言えない剥き出しの野生があり,これがどうもやっぱり,穏やかではない(笑)。万人に教える(提供する)身体技法としては,やや特殊性が強い。そんな気がする。要するに空手って,マニアックなのだ。たぶん。

例えば合気道や弓道や居合道などは,実際は相手を投げたり,武器を使ってたりと,冷静に考えればかなり痛いことをしている術なのに,野性味のない洗練された感じがする。これに対して空手は,泥臭さ,土臭さ,野性味,原始性,のようなものがどうしても拭えない。それはなぜか。

たぶん,それはきっと,拳骨で殴る術だから。

ではボクシングはどうかというと,ボクシングはグローブを手に付けてるところが,野性味を削いでいる気がする。リングという特定の場所で行うのも,スポーツ性を強く演出している。あれがもし,リングの上でないところで,グローブを付けずに行ったらたぶん,とても野生的で原始的だろう。

だから空手のこの剥き出しの野性味や原始性が,他の術より以上に,なんとも武術性を強く感じさせる。なので,太極拳と空手は,個人的には術として融合・統合するために研究する価値は大いにあり,またその旅は果てしなく面白いけれども,一方,他者へ提供する身体技法として融合させることにはあまり意味がないような気が,最近しています。

なお,こんなことを日々考えていることが,まぁ,これ自体,楽しいわけで,このことに深く悩んでいるとかそういうことでは決してありません(笑)。

2014年11月3日

大阪遠征

先週末の土日,11月1日と2日の2日間,大阪は弁天町にある,糸東流空手道宗家摩文仁賢榮先生の道場,養秀館本部道場(糸東流空手道本部道場)に,小林先生と柏道場の面々ともにお邪魔し,宗家じきじきに稽古をつけていただきました。


稽古後に摩文仁賢榮宗家とご一緒に

摩文仁賢榮宗家は,御年96歳(数えで97歳)ですが,とても元気でいらっしゃり,椅子に座りながらではありますが,立ち方から技の掛け方まで,身振り手振りでいろいろとご指導いただきました。

道場前にて

雨模様でしたが,その分蒸し暑さもあって,11月にもかかわらず半袖でも良いぐらいでした。

ここ数週間,季節の変わり目で気温が上がったり下がったりしたせいか,低調に風邪気味で若干体調が優れず,稽古は十分にできたものの,2日間とも稽古後に頭痛がして,それだけが災難でした。

賢雄副宗家と横山雅彦先生から,養秀館にのみ伝承されている「開手のナイファンチ」を教えていただきました。糸東流ではナイファンチは初段から三段まで三つありますが,これとはまた別の,つまり四つ目のナイファンチということになります。通常,ナイファンチは拳を握って行いますが,手の平を開いて行うナイファンチです。これは非常に良い形です。また非常に珍しい形ですので,今回の大きな収穫の一つとなりました。賢雄先生,横山先生,ありがとうございました。

2014年10月27日

マインドフルネス学会

昨日,日曜日,日本マインドフルネス学会の第1回年次大会に参加してきました。理事長の越川先生,副理事長の坂入先生,理事の藤田一照先生,杉浦さん,義徳さんなどなど,よく知ってるみなさんが壇上に登られご活躍で,とても楽しい一日でした。幹事の石井先生ともお会いできました。

マインドフルネスは仏教修行の中核であり,また,ヨーガの中核でもあり,だからカバットジンのマインドフルネス瞑想にはハタヨーガが含まれていて,会場には心理学者に限らずそういう意味でいろんな分野の方が集まっておられました。

ざっくりといえば瞑想なので,身体技法であり,そういう意味ではみなさん,身体に興味関心のある人たちの集まり,ということになります。マインドフルネス瞑想が心の技法だと思っている限りは本質的なところには辿り着けない。そんな人はあの会場には来ていないと思いますが,瞑想は心身一如的な(こうして心身と言う時点で二元論的ではありますが)一元論に基づく,心身技法(身心技法)であり,きっと,武術・武道に対する親和性も高いのではないかと思うのです。

が,残念ながら,そういう人はあの場では前面に出てこない,というか,武術家が壇上に登ったり,紹介されたりすることはありませんでした。唯一,藤田先生が武術・武道への理解があるぐらいでしょうか。

たぶんそれは,武術・武道に対するそもそもの印象が良くないのかもしれない。マーシャルの部分に宿る野性的な,暴力的な,闘争的な感じが野蛮さを醸し出すのかもしれません。しかし,太極拳を例に挙げれば,見て目からしてそれほど野蛮ではないから,そのうち,マインドフルネス学会で太極拳も取り上げて欲しいなぁと,そんなことも思いました。マインドフルネス学会に参加していたみなさん,拙訳書『タオ・ストレス低減法』を是非,お読みいただければ光栄です。

ただまぁ,そう思うと,やっぱり,弓道や居合道や剣道なんかは明らかに殺傷能力のある武器を使うし,合気道や柔道なんかは人を投げるし関節を極めるし,空手や少林寺拳法なんかは人を殴ったり蹴ったりするし,まぁ,どれも殺伐としていて,野蛮と言えば野蛮です(笑)。

しかし,そういう野蛮な術を現実生活の中で使うことはないし,そもそも使うことも想定していないから(仮に積極的に想定している人がいれば,その人はいわゆるケンカ屋というかストリートファイターですから,武道家ではありません),武道の稽古は必然,稽古そのものが目的であり,そうなるとそれは結果的にマインドフルネス瞑想と同じになります。他のスポーツは試合が目的ですが,そうでないのが武道だからです。

と,この辺りは拙著『空手と禅』に書いてあるので,興味のある方は是非。

2014年10月20日

ソマティック

都内で開かれた,とある協会の発足記念フォーラムを覗いてきました。

『タオ・ストレス低減法』を献本させていただく縁で,この協会の運営委員もされているロルフィングの藤本靖さんにご挨拶させていただいた。とても爽やかで柔らかい感じの(それでいて内なる力強さをひしひしと感じる),魅力的な方でした。

それから,約1年前ぐらいでしょうか,『秘伝』誌上で対談させていただいた,曹洞宗の藤田一照先生にもご挨拶してきました。藤田先生はこの協会の顧問をされておられ,この日も確か「教育講演」なるものをされてました。お話はいつも魅力的で面白いので,つい引き込まれて聞き入ってしまいます。

この協会は,『ソマティック心理学』を著した久保隆司さんというカウンセラー・ボディワーカーの方が立ち上げた協会で,主には(今のところ)ボディワーカーの方中心の集まり,のようです。

しかし,一日講演者の方々の話を聴いていて,また,集まってきているオーディエンスの方々を眺めていて,世の中には色んなところでいろんな実践をされている方が本当にたくさんいるなぁと,つくづく思いました。

2014年10月16日

空手と太極拳 その二

以前にも空手と太極拳について少し書きました。昨日の研究会(後半)で両方やりましたが,身体感覚としては,両者はやっぱり違います。

空手は外側からも見える筋肉を使って(もちろんインナーマッスルと言われるようなところも使っているのだろうけれど),呼吸とともに身体を締めます。受けたり突いたりするときに締めます。締めるということは,筋を緊張させるということ。また,力あるいはエネルギーを身体の中心軸に集めます。そしてその集めたエネルギーを相手(敵)に出します。このとき,呼気とともに出します。口から息を吐きます。受けるときも突くときも,筋を瞬間的に緊張させて,エネルギーを相手にぶつけます。そうしないと,相手の強い攻撃を受け切れないし,そうすることで,相手に効果的にダメージを与えられる。空手はそう考えます。

一方で,太極拳は,使う筋肉は太股ぐらいで,後は全身リラックスして行います。もちろん,受け流したり推したり蹴ったりする動作のときも,身体を締めることはありません。太股以外は筋を緊張させない。力あるいはエネルギーは全身に万遍なく循環させます。呼気は鼻から出すので,そうすることでエネルギーが身体内に蓄積される感じになります。つまり,気を外に出さないわけです。技も多くは受け流して推す,という柔らかい動作が多い。強く受け返して強くダメージを与えようという空手の理念とは,だから,違うわけです。

さて,現実的には,手足の届く距離で瞬間的に相手の攻撃を裁こうとすれば,ガチンと攻撃を受けなければならないことが多いと考えると,空手の術の方が断然,至極まっとうなアプローチですね。素早く突いてきたり蹴ってきたりする相手を体裁きで柔らかくかわすのは,アクション映画なら成立するけれど,現実場面でそんなに綺麗に上手くいくとも思えない。実際試しに突いてもらうと分かります。

ただ,柔らかくかわす術も持っていることは,体術として確実にプラスになるようにも思う。現実には難しいけれど,柔らかく受け流し推すことを知っている身体で動くことで相手のバランスは崩れ,より効果的にダメージを与えるために有利な体勢やポジションを得ることができる。そんな気がします。

空手は白鶴拳や詠春拳といった少林拳に端を発する南派の外家拳系統の術であり,太極拳はいわゆる内家拳だから,身体操作の方法が陰と陽の関係のように,異なっています。だけれど,ここのところをうまく融合していく,身体的(実践的)にも理論的にも統合していく。そんなことができないかと,できるのではないかと,できるはずだと,日々,考えています。

日々考えているせいで,だから,研究会(や授業)では,毎回,言ってることが変わるかと思いますが,どうかお許しを。

2014年10月11日

動いて感じて考える

昨日は,朝に学部で,夕方に大学院で,身体技法の授業を行った。気功や瞑想やヨーガ,それから太極拳。みなそれぞれに,おそらくはなんだか良く分からないまま,とにかく身体を動かす。

腹式呼吸法
無極で立つ法
スワイショウ
八段錦
開合と站椿(立禅)
楊式太極気功
歩行瞑想(歩禅)
静座瞑想(坐禅)
死体のポーズ(寝禅)
楊式太極拳(八式)

授業なので,各エクササイズごとに,用意したレポート(実習ノート)に,感じたことや考えたことを書き込む。書いている内容そのものももちろん重要だけれども,それよりも,感じたこと・考えたことをとにかく自分なりに紙に記す,という作業そのものがより重要。

感じたこと考えたことを「書く」と,遠藤卓郎先生も,サンティ先生も,言っていた(特に強調していた)ので,これにならって僕も授業で採用することにしました。実習ノートは,遠藤先生からいただいたノートを参考に作成。

身体技法なので,まず動くこと。そして,ただ動くだけでなく,動きに伴って生じる心身の様々な微細な変化を感じること。そして,ただそれらを感じたままではなく,それについて考えること。でもって,これらを文字にしてノートに書き記すこと。こうして文字に記しておけば,自分で後から見直すこともできる。

みながみな,こういう身体技法にピンと来るわけではないでしょう。それは,普通の講義や演習の授業でピンと来ないのと同じだと思う。まぁしかし,学生たちには,授業としてとりあえず,10週,お付き合い願えればと思います。

2014年10月8日

タオ・ストレス低減法

サバティカルでお世話になったシャミナード大学のロバート・サンティ先生が書いた本 The Tao of Stress を私が日本語に訳した,『タオ・ストレス低減法』が,今月下旬に発売になります。出版社は北大路書房です。すでにamazonでも予約可能になっています。11月初旬には書店に順次,並びます。

副題は,『道教と気功による心身アプローチ』です。半分は道教に基づく精神的(心理的,認知的)アプローチ,半分は気功実践を中心とした身体的アプローチです。ストレス低減に向けて,精神的身体的両方を一緒にやるのがミソであり,その結果,心身の健康とウェルビーイングが促進されます。

私の中では,前著『空手と禅』に続く,武道・武術系身体心理学第二弾,という位置づけです。

日本語版には,最後に約1章分,私の「訳者解説」が付いています。お得です(笑)。本書の本文を読む前に,まずはそこから読んでいただく,というのでも良いかもしれません。

みなさん,お手元に一冊,是非どうぞ。

2014年10月4日

授業

昨日,学部の授業と大学院の授業がそれぞれありました。10月から始まる秋学期(後期)の初回オリエンテーション。午前中に学部,午後夕方に大学院。

それで,どちらも,身体技法をやることにしました。正式な科目名はどちらも「臨床社会心理学」ですが(学部はこれに「演習」と,大学院は「特講」と付きます),他の言い方をすれば身体心理学実践実習。というか,見た目はほとんど体育(笑)。身体を通して臨床社会心理学的な種々のテーマを<実践的に理解>する,ということが目標。

果たして学生はみんな,ついてこられるか。いやまぁしかし,どんな授業でもついてこられる(こちらの意図に沿って理解をちゃんと深められる)学生とそうでない学生はいるので,全員ついてこられないとしてもそれは不思議ではないけれど。

心理学に限らず,大学の授業は,机に坐って,教科書や資料やレジュメとにらめっこし,最近では先生や発表担当者のパワポの電子紙芝居をぼんやりと眺めながら,あれこれ考えたり質問したり答えたり,あるいはうとうと寝たりする,ってのが普通の一般的な風景ですが,他の授業が全部それだから,僕ぐらいはヘンテコな授業をしても面白いだろうと思って,すっかり見た目は体育な授業。昨日,学部の方は,お試しに軽く身体を動かしました。

しかし,なんていうか,机にずっと坐って話を聞いているのはどうもすぐに眠くなるようで,得てして学部学生だけれど,通常の講義や演習だと,狭い教室の中でどんなに近距離で話をしていても,1割は必ずうとうと寝てます。いや2割かな(笑)。(大学院の授業で寝るヤツは,あんまりいませんが,皆無ではない)

まぁ,よっぽど僕の話が眠気を誘うほど退屈なのか,はたまた僕の美声が心地よい子守歌に聞こえてくるのか分からないけれど,よく寝るね~しかし,若者は(笑)。そんなに眠いなら,寝て良いよ。おやすみなさい。安らかにお眠り。きっと,夜な夜な寝ないで深夜バイトや遊びに夢中なのかもしれないからね。

だから,身体を動かし続ける今回の授業形態では基本的に,寝る学生はいないことになります。いや,ただ,坐禅や死体のポーズもやろうと思うので,そのときはリラックスして,寝るだろうな,きっと。それはそれで,まぁ,良いことではあります。

2014年10月2日

目を閉じる

さっき,自分の武道論のブログで,目を閉じて稽古する,というようなことを書きました。その方が身体感覚を鋭敏に察知できる,と言う話です。

坐禅の場合,「半眼」というのがあります。目を開けているような開けていないような,まぁ,実際はうっすらと開けているわけですが,何かを見ようとして見てはいない状態です。うすぼんやりと漠然と目を開けている,そんな感じ。曹洞宗の藤田一照禅師は著書『現代坐禅講義』の中で,確かそれを「マジックアイ」と称していました(なお,その意味については,是非,『現代・・・』を参照ください)。

目を開けていると,視覚情報がありますから,そこからあれこれと思考や感情が連想的に湧き出てきます。それをしないために,何かを見るようで見ていることなく,開けているわけです。これ,面壁しても,思考や感情が湧いてきます。内山興正禅師の言葉で言えば,まさに脳の分泌物。

僕の場合は,いつも自宅の部屋で壁を向いて坐るのですが,その,白い壁紙にはよく見ると模様や筋や肌理や傷があって,その微妙な陰影からロールシャッハのように物が浮かび見えてくるのです。

じゃあ,なんで目を閉じないんだ,という話になるわけですが,目を閉じると,場合によっては,眠くなってしまうからだというのが理由の一つでしょうか。だいたい,坐ってるという状態は,身体的には微動していますが大きくは動かないので,概ねじっとしていることになります。ここに腹式呼吸をしますので,深いゆっくりとした呼吸を繰り返します。やがて呼吸は長くなりますから,かなり深まってきますと,だんだんと眠くなる場合があります。ここで目を閉じていようものならそのまま心地よい眠りの世界へまっしぐら。とならないように,うっすらと目を開けておく,という説明の仕方があります。

しかし,上に書いたようにそれでも目には何らかの情報が入ってきますから,「マジックアイ」であることを維持しないと,視覚で得た刺激を人間は勝手にあれこれ解釈して思考を拡げます。刺激が少ないですから,脳はその物足りない状態を穴埋めしようとあれこれ手を打ちます。こうした作用がきっとあれこれ思考を分泌させるのでしょう。心は,何もしていないときに最もさまよいます。これがマインドワンダリングです。マインドワンダリングしやすい究極の形が,坐禅です。

となると,普通に考えれば,少しでもワンダリングしないように,目を閉じていたいわけです。そういう視覚情報をカットして,身体感覚,つまり,皮膚感覚や深部感覚や内臓感覚に意識を向けたいわけです。まさに,「微細な身体感覚」(藤田一照・山下良道『アップデートする仏教』)に内的な目を向けたい。そうするためには,目を閉じていた方がやりやすいわけです。

無論,何十年も修行している禅僧なら,そうして半眼で坐る方が難しいですから,そうしているのでしょうけれど,僕のような素人は,まずは目を閉じて坐るので十分なような気がしているわけです。だから,最近は,目を閉じて坐ってます。

カバットジンによるマインドフルネス瞑想の各種技法でも,瞑想するときに開けても閉じても良いと書いてあった気がするし,バンテ・グナラタナ師の本(『マインドフルネス 気づきの瞑想』)にも,場合によっては閉じても良いよと,書いてあったような気がする。サンティ先生も目は閉じて良い,ただもし,慣れてくれば半眼で,と言っていた。

ので,まぁ,だから,最近はずっと,閉じて坐ってます。それで,気功をするときも,ときに目を閉じていることがあります。もし,やっぱり「目は閉じない方が良い」という何か説得的な理由が見つかれば,開けようと思うけれども,そうでなければ,こうして目を閉じる方法で良いような気がするので,当面このまま続けようと思っています。お試しあれ。

2014年10月1日

道を譲る

道を歩いていると,向こうから人や自転車がやってくる。歩道が狭い場合は,相手に譲ることにしている。

最近,このときの,譲られた相手の反応をさりげなく観察している。嫌らしいといえば嫌らしいのだけれど(笑),さて,人は,道を譲られたときどうするのだろうと思ったからです。

それで驚いたことに大半は,僕のことを,まさに路傍の石か何かぐらいにしか思っていないように,あるいは,僕が透明人間であるかの如く,まったく無反応で通り過ぎます。じっと前方を見ているか,あらぬ方向をぼんやり眺めるか,はたまたうつむき加減で,通り過ぎていきます。

その人が通り過ぎるまで,僕はじっと待っています。なのに,まったく無反応。

いや,何も,反応して欲しい(礼を言って欲しい),と言っているわけではありません。別に感謝されたいから道を譲っているのではなく,近づいて対面して右に左にと相手と一緒に反復横跳びするのが面倒臭いので,先に譲っておくだけです。

なぜこういうことを思ったり観察したりするようになったかというと,その,4ヶ月間ホノルルに住んでいて思ったのは,向こうの人は,とにかく,赤の他人でも何らかのコミュニケーションを取ることが多くて,それはそれで最初は面倒なんだけれど,慣れると気持ちの良いものだと思っていたからです。道を譲り合ったときには,ほぼ例外なく,礼を言うか何らかの挨拶をする。

で,日本はこういうときどうだっただろうと意識して見てみると,基本,無反応(無視)なんだなと,改めて気がついた,ということ。

日本人は,知っている人と知らない人をはっきり区別するのかもしれない。知っている人には親しくする。一方,全く知らない人は,石と一緒で,人間ではないし,そもそもそこに存在すらしていない。だから,挨拶も礼もしない。石や透明人間に挨拶や礼をする人はいないからね。

でも,オモテナシの国なんですよね,ここ。ああそうか。つまり,知っている人知らない人ではなくて,関わりのある人とない人とを区別するのかもしれない。だったら,すれ違ったときには何らかの関わりが生じているのだから,ちらっと会釈ぐらいすれば良いのにね(って,やっぱり本心は,礼を言って欲しいのね)。

石扱いする(される)よりは,そのときだけ関わりの生じた知らない人であっても,お互い軽く会釈ぐらいする,そういう柔らかい世の中が,良い。ように思う。

2014年9月29日

ヨーガ

『ヨガを科学する』という翻訳書を読みました。(僕の書評ブログ「本と知」にも書きましたので,興味のある方はご参照を)

ヨーガの歴史や流派(スタイル)が分かり,また,タイトル通りに,ヨーガをすることによってどういう効果があるのかについて,科学ジャーナリストが徹底的に調べている本です。勉強になりました。

マインドフルネスストレス低減プログラム(MBSR)の中に,ヨーガ(ハタヨーガ)が組み込まれています。マインドフルネス・ヨーガ瞑想。なんでカバットジンはヨーガを組み込んでいるのか。まぁ,もともとカバットジンがヨーガをやっていて,そこからMBSRに行き着いた,というのはあるから,「なんで」というのも難しい問いかもしれないけれど,当然の答えとしては,やはり,マインドフルネスを養うため,でしょう。

なぜヨーガがマインドフルネスを養う瞑想法として採用されるのか。それはだから,カバットジンが元々やってたから,ってのは置いておいて,技法として,ヨーガでなくてはならないのかどうか,ということ。

そうではないと思う。

ヨーガがマインドフルネス瞑想に適しているのは,身体を使って様々なポーズをするので,必然的に四肢への意識や身体バランスへの意識が維持される。かつ,ヨーガは呼吸を重視する。

つまり,要は,身体と呼吸への気づきを半ば必然的に維持させるような技法であれば,基本的には何でも良いのだと思う。だから,気功でも太極拳でも空手でも,もちろん,良いのだ。

加えて,ヨーガにはストレッチングの要素もある。リラクセーションにつながりますね。また,ポーズによっては軽い筋トレの要素もある。これは基礎代謝を高める効果があるでしょう。そして,こうした効果は,気功も太極拳も同じ。

『ヨガを科学する』を通して読む限り,メッセージとしては,ヨーガの本来性は,身体(と心)を静める,緩める,リラックスさせる,落ち着かせる,新陳代謝を低下させることであり(ただその鎮静の後に覚醒[性的な覚醒を含む]が来るらしいけれど。これを著者は「ヨーガのパラドックス」と呼んでいる),いずれにせよ,昨今のヨガフィットだとかパワーヨガなどの代謝を高めて痩身効果を狙うとするフィットネス(あるいは有酸素運動)系ヨガってのは,ヨーガとは本質的には相容れない矛盾したイロモノもしくは邪道だ,と暗に示唆してます(僕にはそう読めました)。

そういう意味では,ヨーガに近いのは,気功あるいは太極拳。それから坐禅。坐禅は,ヨーガの,蓮の華のポーズ(パドマ・アーサナ,蓮華坐)ですね。一方,空手は,稽古の仕方や段階にもよるけれど基本的には,筋肉を瞬間的に強く締めたり,突いたり蹴ったりするので,ヨーガや太極拳のように,身体を静める方向ではない。だから,空手と太極拳は,緊張と弛緩という陰陽の関係に位置づけることができる。

2014年9月25日

ボディ・スキャン

昨日の夜,身体技法研究会で,マインドフルネス瞑想の一つ,ボディ・スキャンをCDの教示にそってやってみた。50分。

八段錦他の気功をやって暖まった後に,仰向けに横たわって50分間行ったので,少し身体が冷えてしまった。じっとして行う瞑想は,季節や服装を考えないといけない。反省。

それから,絨毯の上だから大丈夫だと思ったけれど,やっぱり,ヨガマットとかの上でやるのが良いことも分かった。50分平らなところに仰向けになっていると,後頭部と腰が痛い。そういえば,自宅で同じボディ・スキャンをやったときにはヨガマットを敷いてやっていた。これも反省。

身体を動かすような身体技法と,こういう座ったり横たわったりする身体技法を,どういう順番でどう組み合わせていくのが良いのか,ベストマッチング,ベストプログラムを目指して,これからもっといろいろ検討していかなくてはいけない。

今,身体技法研究会でやっているプログラムは以下の通り。

スワイショウ
制定(立式)八段錦
開合と站椿
太極気功(深呼吸)
マインドフルネス瞑想 (ここに昨日はボディ・スキャン)
---------------
太極拳(八式,循環八式)
空手(サンチンテンショウ,ナイファンチ)

例えば,静から動になっていくとか,動から静になっていくとか,陰から陽とか,陽から陰とか,陰から陽になってまた陰に戻るとか,何かしら意味というか流れというか道筋があった方が,身体も馴染みやすい気がする。

2014年9月22日

循環ナイファンチ

ナイファンチの形は,最後の右諸手突きの後,再び最初の右大裏受けにつなげれば,永遠に続けることができる。つまり,永遠に左右を循環し続ける。これを循環ナイファンチと呼ぶとすると,循環ナイファンチは,世界が途切れなく変化し続けること,このとき世界は陰が陽になり陽が陰になるように変わり続けていくことを,象徴的かつ身体的に教えてくれる。

楊式にも循環八式というのがあります。たぶん,正宗楊式を謳う傳家が考えた稽古法だ(と思う)。これは楊式の始まりの部分を永遠に続ける(つなげる部分で多少変えてはいるけれど)。スティーブも,套路の中で一番難しいのは,蹴ったり回転したりするところではなくて,最初の始まりの部分だと(Pang先生が言っていたと)言っていた。ここのところを永遠に繰り返す循環八式は,だから,良い。そして途切れなく変化し続ける陰陽も,感じることができる。

2014年9月20日

歩き稽古

正しく歩くと,一石二鳥どころではない。

① 歩いても足が疲れない(甲やすねが痛まない)。
② 内腿が鍛えられるので,武術的に良い稽古になっている。
③ 意識して歩くことが歩行瞑想になるので,マインドフルネスの稽古になっている。
④ O脚が矯正される(あるいは悪化しない)。
⑤ 身体構造的に自然に姿勢が良くなる。するとEmbodied Cognitionからして気分が良くなる。

一石五鳥。

歩くという動作に,一日の中で結構時間を割いている。通勤時や職場での異動,自宅での移動。現代人は座ってばかりの生活,なんて言われるけれども,いやいや,結構歩いているよ。この,歩いているときを全部稽古に当てられるわけだから,素晴らしい。

もういっそ,だからこれを「歩き稽古」と呼ぶことにする。

2014年9月18日

正しい歩き方と歩く瞑想

足を並行に真っ直ぐ出し,母指球で後ろに蹴り出して歩く。これを昨日も一日実行してみた。すると,以前の,足の甲とすねの外側の痛みはなくなった。やっぱり歩き方が問題だったのだ。

この歩き方は,結果的に,内腿の筋肉を使う。内腿が締まるので,骨盤が安定する。骨盤が安定するので,その上に背骨が安定して載り,頭蓋骨も坐りよい(?)位置に落ち着く。つまり,姿勢が勝手に良くなるのだ。

小笠原流の小笠原清基という人が書いた『疲れない身体の使い方』という本を読んでいる。私たち人間は,その骨格や筋肉に見合った立ち方歩き方坐り方をしていれば,疲れないのだとある。でも,長い年月をかけて間違った立ち方歩き方坐り方をしていると,そのために本来正しい身体の使い方に必要な筋肉が衰えてしまって,いざ正しい使い方をしようとすると筋肉痛になったりするというドツボにはまってる,と書いている。(「ドツボ」とは書いてないけれど:笑)

いやまさにその通りだ。こうして正しく歩いてみると,内腿の筋肉がぐっと締まる感じがする。ほんのりと筋肉痛である。それから,土踏まずから母指球にかけての部分が筋肉痛っぽい。しかし,この痛みは,これまでの足の甲やすねの外側の痛みとは全然違う。これまでは,不快に慢性的に痛かったけれども,今の内腿と母指球の痛みは,運動した後の心地よい筋肉痛である。つまり,前者は疲れた痛みであり,後者は鍛えられた痛みである。

『疲れない・・・』でも一番強調されているのが,この内腿の筋肉。大腰筋,というらしい。この大腰筋に限らず,内腿の筋肉を鍛えるのは,O脚の矯正にも良いだろうし,上記のように,姿勢も良くなる。歩くというのは日常で多くの時間を費やしている動作であるから,これを全部稽古にすることができるわけだ。

『疲れない・・・』には,武道ではこの大腰筋を使う,その他各種スポーツもそうだとあった。いや,僕など武道をやってるわけだけれど,全然鍛えられてなかった。反省。この,歩く稽古を,これから徹底していこう。

そして,こうして歩くことを稽古にするためには,歩くことを常に意識している必要がある。つまり,歩行瞑想である。昨日,身体技法研究会では,マインドフルネス瞑想の歩行瞑想を,学生と一緒にやってみた。まさに,ゆっくり歩くという動作に注意を集中するわけだけれども,ちょうどこうして歩く動作そのものの見直しをしたところで,僕としてはグットタイミング。

歩くを稽古にするためには,同時に,実質的には歩行瞑想をすることになる。今までの癖や週間があるから,気を抜いてワンダーするとつい横着な歩き方に逆戻りしてしまう。そうならないためには,マインドフルに歩く必要がある。一石二鳥。一挙両得。お得です。

2014年9月16日

歩き方

ここ数年来,どうも足が疲れるので,靴が合わないのかと思い,あれこれ試したけれども結局,どの靴でも疲れるので,いつものコンバースのハイカットに収まっていた。コンバースを履いていれば,比較的足は疲れない。けれど,長く歩いた後は,やっぱり疲れる。仕事の行き帰りだけで疲れる。どこかに,僕にピッタリの靴はないだろうか。

ホノルルに4ヶ月滞在して,その間,サンダルをずっと履いていた。すると,かなり足が疲れる。果ては,足の甲とすねの外側が痛み出し,すぐに攣るようになった。これはいかん。原因はサンダル履きか。しかし,サンダルはみんなも履いてるぞ。いやそもそも他の人はこんなに足の甲とすねの外側が痛いものなのか。みんな,自分にぴったりの靴を履いてるのだろうか。どんな靴を履いても痛くないのか。

帰国してサンダル履きを止めたら,足の甲とすねの外側の痛みは軽減した。だからやっぱり履き物のせいなのか。そう結論づけそうになりつつあったところ,昨日,なんの経緯か文脈か忘れたけれども,奥さんにそのことを改めて(前からずっと言っていたけど,昨日改めて)話したら,僕は端から見ていて歩き方が悪い,ということだった。それは,「踵(の外側)がすり減る歩き方」なのだそうだ。

踵(の外側)がすり減る歩き方。踵(の外側)をするように歩くわけだから,ガニ股で,つま先を跳ね上げ,踵が地面をずるような風になっている,と。これは自分がO脚だから仕方がないと思っていた。

つま先を跳ね上げるためには,足の甲とすねの外側の筋肉を使う。これは,サンダルを履いて歩くときに,サンダルが脱げないよう,つま先を持ち上げる動作と同じだ。そうか。足の甲とすねの外側の痛みは,歩き方に問題があるのだ。

そこで早速,ネットで「疲れない歩き方」で検索してみた。色んな人が色んなことを書いたり言ったりしていますが,だいたい誰もが共通して指摘しているのが,①親指の付け根(母指球)で後ろに蹴って歩くこと,②足は並行に真っ直ぐ出すこと,の2点。その他,腰の使い方だとか足の動かし方だとか色々あるけれど,全部実行するとこんがらがって歩けなくなるので,とりあえず,この2点,足を並行に真っ直ぐ出して,母指球で後ろに蹴り出して前に進むことを心がけて歩いてみることにした。

なかなか良い気がする。

偶々,これから読もうと手元に買って置いていた,小笠原流の『疲れない身体の作り方』(小笠原清基,アスペクト)にも,だいたい同じようなことが書いてある。まだ読んでないから,そのうちちゃんと読もう。

そもそも,この歩き方は,走り方と同じだ。普通,走るときは,足は並行に真っ直ぐ出すし,親指の付け根(母指球)で後ろに蹴り出して前に進む。そうじゃないやり方では,走るのは逆に難しい。だから本来,走るという動作と,歩くという動作は,構造的には同じなんじゃないだろうか。そんなことは当たり前だと言われるかもしれないけれど(笑),僕の動作はこれまでそうではなかった。

あと,O脚の直し方として,足を並行にそろえて後ろに向かって真っ直ぐ歩く,というのをやっている人がいた。そうか,O脚だから仕方がないのではなくて,今までの「踵(の外側)がすり減る歩き方」がO脚を助長させているのだ。だから,足を並行にそろえて真っ直ぐ出し,母指球で後ろに蹴り出すことで,多少はO脚も矯正されるかもしれない。

というわけで,だいぶ長いこと悩んでいた足の疲れと痛みを解決できそうな糸口が見つかった。ような気がする。

「歩く」というのは,「立つ」と並んで,身体操作の基本だ。人間,誰でも歩く。その歩くという基本的な動作を,人間の身体に合ったやり方で行う。これは,生きる上での基本だ。僕はその基本がちゃんとできていなかった。長い間,徐々に徐々に正しくない歩き方が身に積もり,それが身体の異変として,疲れや痛みという形で表れてきたというわけだ。無理(不自然)を,身体の信号が知らせてくれる。

靴が合わないのだと文明のせいにする前に,そもそも動物としての身体の不自然さに気がつくべきだったなぁと,つくづく思う。歩き方を直すのは難しい。けれど,靴を変えるのは,お金さえ出せばすぐに達成される。人間はだから,つい,楽な方へ,簡単な方へと解決策を見いだそうとする。

さて,これからは,歩き方に意識を向けながら,しっかり歩くことにしよう。他には,普段から「走る」というのを取り入れてみようかとも思う。そうすれば,歩く動作というのがもっと分かるかもしれない。

2014年9月15日

武の旅

術の原理を探っていくのは宝探しのようだと昨日書いたけれども,宝探しってのは,①宝が何なのか(どんなものなのか)分からない,②そもそも本当にそんなのが存在するのかどうか分からない(存在する可能性が高い場合と低い場合がある),という二重の「分からない」があるから面白い。

ここには,サブバージョンがいくつか成立する。

(A)①どんなものかある程度分かっていて,②理論上歴史上記録上,実際,確かに存在する可能性が高い。
(B)①どんなものかある程度分かっているけれど,②それは単なる絵空事(虚構)であって,そもそも存在しない可能性が高い。
(C)①どんなものかほとんど分からないけれど,②理論上歴史上記録上,実際,確かに存在する可能性が高い。
(D)①どんなものかほとんど分からないし,②それは単なる絵空事(虚構)であって,そもそも存在しない可能性が高い。


(A)は,例えば,歴史学・考古学に基づく探索みたいなものかな。背景や周辺の証拠がはっきりしていて,仮説の信憑性が高い場合。アカデミックです。(B)は,徳川埋蔵金とかナチスの財宝とか,あるいは,妖怪やUMAの類を探しに行く探検がそうかもしれない。ロマンです。(D)は,噂程度の未確認情報に基づいて探しに行く,かなり眉唾なお宝探し。シャレです。これらに対して,(C)は微妙である。なにやら凄いものが隠されているかもしれない可能性が高いけれど,それが何だか良く分からない。これは,宝探しの旅に出る,最初の一歩が出にくいかも。

身体の,特に武の妙術を探る旅は,この(C)に近い。ような気がする。

色んな土地で長きに渡って伝えられてきている武術には,同じ人間の行う身体技法なのだから,そういう各種武術に共通する何かしらの共通原理というのが,ある可能性が高い。もちろん個別には,末節の技に違いはあるけれども,本質的な核となるところはきっと同じである。だって同じ身体構造上の最適な操作に関することなんだから。でも,それは早々明らかになるものではない。分かるには何十年もかかるかもしれないし,人間の一生涯では辿り着けないかもしれない。

武術の旅ってのは,そういう面白さです。手がかりとなる目印だとか,確かにこっちの方だというのが分かる証拠だとかを自分なりに発見しながら歩いていく。当然,宝の在処を指し示す地図はない。あるのは先達(師など)の歩いた道,つまり,その先達が歩いたところまで描いた地図のみ。

さて,その先達が間違った方向へ歩いていると,それはそれは大変なことになる。例えば,北に行くべきところで,だいたい北の方へ向かっていれば,北へ向かう道はいくつもあろうだろうから,それはそれでそれぞれ正しいといえるけれども,もし南に向かっていたり,東西に向かっていたら,それはなかなか厳しい。

まぁ,宝探しの旅程に正解はないし,ルートも無数にあるだろうから,本当のところは,宝を探し当てることが目的なのではなく,宝探しの旅をひたすら続けることが目的なのです。

2014年9月14日

空手と太極拳

昨日は,柏道場の稽古でした。

昨日の朝にもちょっと感じたんだけれど,夜の稽古でセーパイを小林先生とやったときに,やっぱりそうかもしれないと思ったこと。それは,空手は,力あるいはエネルギーを身体の中心に集めてくる感じの術なのかもしれない,ということ。

特に那覇手はそうかもしれない。中心の軸に向かって螺旋状に絞り込んでくる感じ。形の中で,一つ一つの動きについて,全てではないけれど,全体的に,手足ともに身体を操作する方向や質がそういう風に働くようにできている。イメージとしては,低気圧の上昇気流のよう。締めることが術の根幹の一つなので,closeする感じ。首里手ももちろん同じ原理だけれど,那覇手ほど際だってはいないかも。

一方,太極拳は緩めることが術の根幹の一つなので,openする感じ。もちろん精神的な中心や身体的な軸が重視されるわけだけれど,その中心あるいは軸から放射状に拡がっていく感じ。やや無理があるかもしれないけれど,対比的に考えれば,高気圧の下降気流のようとも言える。

空手も中国武術にルーツがあるけれど,おそらく那覇手の原型・祖型は南方の白鶴拳や詠春拳辺りだろうし,首里手も北方の少林武術辺りだろうから,いずれにせよ仏教系の外家拳(=少林拳)系統である。だから,太極拳のような道教系の内家拳とは,趣が異なる。

ただ,それでもやっぱり武術として共通する原理があると思うんです。あんまり,何々だからと最初から壁を作ってしまうのは,もったいない。分かるものも分からない。何かあるかもしれないし,何にもないかもしれない。

もしかして,仏教と道教の(思想的な)違いも,こうした身体的な術理の違いに影響しているかもしれない。いや,分かんないけど(笑),なんとなく。

自分なりに究極の原理を探っていく旅は,宝探しのようで,だから面白い。

2014年9月11日

身体技法研究会

昨日の夜,身体技法に関する研究会を開催した。初回。その名も,身体技法研究会。そのまんま。

詳細はこちら

前半は気功と瞑想(マインドフルネス瞑想),後半は武術(空手と太極拳)をやる。ありがたいことに,二人参加してくれました。外国人留学生の一人と,僕の研究室の学部生が一人。

留学生の彼女は,僕の武道論のブログを見てくれていて,それで数ヶ月前にメールをくれた,熱心な学生です。僕の武道論を読んで,だから,たぶん禅などの精神性を重視した武道を習いたい,ということのようだったけど,武術としての形の用法(応用)にも興味があるみたい。良いことだ。

昨日は,一日色々詰め込んで仕事した最後に研究会だったので,体調がやや優れず,そのためにやや早足な進め方だった。反省。

何にせよ,毎週水曜日の夜に,だらだらと身体技法を一緒に稽古するので,学部生・院生はもとより,学生でなくても(一般の人でも),来てもらえればと思う。けど,一般の人は,こんなところまで来にくいだろうなぁ(車も停められないし・・・)。つくづく,筑波は不便だと思う。

是非来て欲しいと思うのは,臨床系の院生。それから,日々仕事で疲れている教職員のみなさん。もちろん,日々疲れている学部生や院生のみなさんもだけれど。

みんな,疲れてるのかな。疲れてるんだろうな。スポーツや軽い運動などを定期的にしていないと疲れが貯まりやすいかもしれない。そういう人は,軽く気功をするだけで,ずいぶん身体が軽くなると思う。来てくれると嬉しいね。


2014年9月10日

捨てる行 その2

いやはや,だいぶ捨てた。すっきりさっぱり。気持ちが良い。後はクローゼット(押し入れ)に入ってる,昔やっていた居合の道具やらパントマイムの道具やら。この辺りもあらかた捨ててしまおう。

こうやってモノを整理すると,奥にしまってあった昔のモノに出会う。こういう再会は引っ越しの時ぐらいしかないから,積もり積もったモノを整理する機会は,5年に1回ぐらいあった方が良いかもしれない。その都度,本当に必要なモノは何かを取捨選択していく。いわば,選抜大会か。

だったら記憶の目印に,ちょうどワールドカップのある年,つまり4年に1回,モノ選抜大会として,この「捨てる行」をしようかね。となると次回は2018年か。2018 FIFA ワールドカップは,検索してみたら,ロシアらしい。ん?そういえば,今年ワールドカップを開催したブラジルも2016年に夏期五輪をリオでやるけれど,ロシアもソチで今年冬季五輪をやったばっかりなのに,またすぐワールドカップもやるのか。どっちもイケイケドンドンですな。

昔もらった写真やら,捨てずに取ってある手紙やらが,ふいに出てきたりする。つい写真をじっと見てしまう。封筒から出して手紙をもう一度読んでしまう。そのときのその人のことを思い出す。そういう幾人もの人の縁で今の自分があることを,改めて思う。ありがとうございます。

10年前に越してきたときには必要だと思って残してあるものが,今となっては必要ないものになっている。捨てる。そうすると,昔のモノはどんどん減っていく。そして,これだけはどうしても捨てられない,というモノだけが残っていく。

そうやって幾多の選抜大会を乗り越えて未だに残ってるのは,小中学校の時に描いた下手くそなマンガ。恥ずかしいぐらい下手くそだけど(だから誰にも見せたくないけれど),微笑ましくて,なんとなく捨てられない。

2014年9月9日

捨てる行

ここ数日,夏休み(およびサバティカル休暇の残り)を利用して,自宅の部屋を一掃している。入居して10年経ったので,いろいろなモノが蓄積している。だから,もう要らない(使わない)ものは全部捨てよう,ということ。

捨てるときに,私たちはつい,「いつか使えるかも」とか「まだ使えるな~これ」とかいった思いが頭をよぎり,捨てずに取っておいてしまう。でも,例えば5年も10年も使ってなければ,たぶん,この先も使わない。だから,とにかく,捨ててしまった方が良い。身軽になりましょう。

つい捨てるのを躊躇してしまう心を断ち切るために,この掃除を,「捨てる行」と位置づけている。つまり,こうしてとにかく身の回りの不要なモノを捨てるという,一つの<修行>なのだ。

人は色んなものを背負い込んで,抱え込んで,さらにはポケットにしまい込んで,口にくわえて,手に握って,脇に挟んで,それを後生大事に手放さないようにして,生きている。そりゃ疲れるさ。だから,要らないものはできるだけ捨ててしまった方が良い。まずは,目に見える物質的なモノから,捨ててしまいましょう。

要るか要らないかの判断は必要だけれど,迷ったら,捨てる。迷うと言うことは,使わない可能性も大いにあるということだから,その「使わない」方に賭ける。何かに必要なものは残しておかないといけないけれど,その何かがはっきりしないものだとか,その何かをする可能性が限りなく低い場合は,たぶん,そのモノは,必要ない。

だから,じゃんじゃん,捨ててしましましょう。で,捨てるのはもったいないから,今度からはモノを買い込まないようにする。モノなんてこうしてどうせ要らなくなって捨てるんだから。物質的なモノは,そのときはものすごく欲しいと思っても,いつか価値は無くなるんだから。

もちろん,時間を経ても価値の変わらないモノもあります。でも大概は,いずれ価値は無くなる。だから,モノはできるだけ買わない方が良いのだ。でも買ってしまうときは買ってしまうんだよなぁ,つい(笑)。

2014年9月8日

系譜

ページトップに「系譜」という見出しを一つ加えました。ここに,私に関する,空手と太極拳の系譜,つまり,師弟関係を示しました。

で,この,一本線になっている系譜ってのは,「錯覚」だということです。例えば,私の空手を辿れば,糸洲安恒先生と東恩納寛量先生に辿り着きます。太極拳の系譜を辿れば,楊露禅先生に辿り着いてしまいます。それが一本の線で表現されます。凄いですね。でも,これ,私という個人的な視点から見た「錯覚」です。

どういうことかというと,各師には,それぞれ他にも弟子がいますから,実際は,下に行けば行くほどミラミッド型に増えていくわけです。しかし,「私」の系譜にとってそれは関係ないですから,捨象します。すると当然,こうして一本の線になります。

弟子の数がそれぞれどのくらい多いか少ないか,つまり,その先生が多くの弟子を取る人だったのかそうでなかったかによって弟子の数は違いますから,単純な三角形にはなりませんが,いずれにせよ,間違いないのは,本当は私はそういうピラミッドの底辺の一つだということです。それでも,「私」という個人的な視点から系譜を眺めると,こうなるわけです。

「私」という視点がいかに特殊かがこれで分かります。でもそうやって人は自分の物語や系譜を紡ぎ,伝統や歴史の中に自分を位置づけ,安定感・安心感を得ようとします。根(root)を求めます。

こういう系譜を見ると一瞬凄いように思えますが,繰り返しますが,それは「錯覚」です。しかし人はそれぞれ,こういう自分に都合の良い様々な錯覚の中で生きていくわけです。ご多分に漏れず,私もその一人です。その方が幸せだからです。

ただ一方で,こうした系譜さえも辿れない曖昧なところで空手や太極拳をされている方も多々おられると思います。つまり私がそもそもこうして系譜を辿ることができるのは,小林真一先生に空手を,Steven Youngに太極拳を習えているという幸運があってのことですから,そこはまさに先生に感謝,武縁に感謝です。

2014年9月7日

ネガティブ

自分の中では日誌(日記)的な位置づけにしたこのブログに,早速,一体何を書こうかと考えたけれど,特には浮かばない。日々生活していて特別に突出してこれを書きたい!という時ってのはそんなに訪れるものではなくて,ただ,まぁ,できるだけポジティブか少なくともニュートラルなことを書こうとは思う。

人はついネガティブになりがちで,気がついたらネガティブな思考が頭の中をぐるぐる回転している。これをマインドワンダリングと言います。マインドワンダリングは常にネガティブってわけじゃないけれど,しばしばネガティブになりやすい。もちろん,個人差はあります。

でもってブログに書こうと思うことはしたがって,ネガティブなものになりやすい。考えていることを書くわけだから。これを避けたい。でないと,なんだか暗いブログになるからね。

いや実はさきほど一通り書いて公開したんだけれど,どうにも暗い内容の投稿になってしまったので,いったん全部消しました。やり直し。で,今もう一回,最初から書き直しているわけです。

といって,何か書くことがあるわけでもなく,だから,本日はこのくらいで。

2014年9月6日

湯川ポテンシャル。

さて,ブログのタイトルをどうしようかと思って,「湯川式」とか「湯川流」とか考えながら適当に検索してたら,偶然見つけた,「湯川ポテンシャル」。

湯川ポテンシャル。湯川がポテンシャルだぞ。なんだかスゴいぞ。

と思ってWikiを見てみると,ご存じ,かの湯川秀樹博士が考えた物理学の式(概念?)ということ。うううむ,良く分からない。難しい式が書いてある。素粒子物理学。ずいぶん遠い世界だ。けれど,本来の意味はともかく,なんだか語呂がカッチョイイので,ブログのタイトルに借用。「湯川ポテンシャル」だと,物理学(者)のサイトかと間違われるかと思い,最後に「。」を付けました。効果があるのかないのか定かではないですが。

で,このブログですが,何か書きたいことがあったときのために,とりあえず開きました。特に何を綴ろう,という目標も目的もありません。雑感,記録,意見,要望,コメント等々,適当に。ユルく。


この前まで書いていたホノルル滞在記(檀山式身体心理学・序説)のときも最初に書いたけど,要は,ブログという媒体は,オープンなので,他者の目を意識することで客観的に自己を見つめることができる,という利点があるわけです。

誰かが好き好んで僕個人のブログをせっせと読むとはほとんど思えないけれど,仮にそういうありがたい読者がいることを想定することで,あるいは,検索したらたまたま辿り着いてしまってつい記事を読んでしまって無駄な時間を過ごしてしまったと後悔の念に押しつぶされている不運な読者がいることを想定することで,そういう他者の視点を利用させてもらって,客観的に物事を綴ることができる,そういう装置というかツールだと,そう思うわけです。

思ったことがあれば自分一人でノートにでも書けばいいじゃんとか,パソコンのワープロソフトで書いて保存しておけばいいじゃんとか,まぁ,もちろんそうなんだけれど,こうしてパブリックに書く,というところに,僕個人にとって,若干の意味というか利があるわけですね。

副題は「身体を練る,心を練る」ということで,一応,身体心理学とか武術とか武道とか身体技法とか,そんな観点からあれこれ書きたいとは思っていますが,たぶん,一定しないと思います。甚だしくブレまくると,大いに予想されます。