2014年9月29日

ヨーガ

『ヨガを科学する』という翻訳書を読みました。(僕の書評ブログ「本と知」にも書きましたので,興味のある方はご参照を)

ヨーガの歴史や流派(スタイル)が分かり,また,タイトル通りに,ヨーガをすることによってどういう効果があるのかについて,科学ジャーナリストが徹底的に調べている本です。勉強になりました。

マインドフルネスストレス低減プログラム(MBSR)の中に,ヨーガ(ハタヨーガ)が組み込まれています。マインドフルネス・ヨーガ瞑想。なんでカバットジンはヨーガを組み込んでいるのか。まぁ,もともとカバットジンがヨーガをやっていて,そこからMBSRに行き着いた,というのはあるから,「なんで」というのも難しい問いかもしれないけれど,当然の答えとしては,やはり,マインドフルネスを養うため,でしょう。

なぜヨーガがマインドフルネスを養う瞑想法として採用されるのか。それはだから,カバットジンが元々やってたから,ってのは置いておいて,技法として,ヨーガでなくてはならないのかどうか,ということ。

そうではないと思う。

ヨーガがマインドフルネス瞑想に適しているのは,身体を使って様々なポーズをするので,必然的に四肢への意識や身体バランスへの意識が維持される。かつ,ヨーガは呼吸を重視する。

つまり,要は,身体と呼吸への気づきを半ば必然的に維持させるような技法であれば,基本的には何でも良いのだと思う。だから,気功でも太極拳でも空手でも,もちろん,良いのだ。

加えて,ヨーガにはストレッチングの要素もある。リラクセーションにつながりますね。また,ポーズによっては軽い筋トレの要素もある。これは基礎代謝を高める効果があるでしょう。そして,こうした効果は,気功も太極拳も同じ。

『ヨガを科学する』を通して読む限り,メッセージとしては,ヨーガの本来性は,身体(と心)を静める,緩める,リラックスさせる,落ち着かせる,新陳代謝を低下させることであり(ただその鎮静の後に覚醒[性的な覚醒を含む]が来るらしいけれど。これを著者は「ヨーガのパラドックス」と呼んでいる),いずれにせよ,昨今のヨガフィットだとかパワーヨガなどの代謝を高めて痩身効果を狙うとするフィットネス(あるいは有酸素運動)系ヨガってのは,ヨーガとは本質的には相容れない矛盾したイロモノもしくは邪道だ,と暗に示唆してます(僕にはそう読めました)。

そういう意味では,ヨーガに近いのは,気功あるいは太極拳。それから坐禅。坐禅は,ヨーガの,蓮の華のポーズ(パドマ・アーサナ,蓮華坐)ですね。一方,空手は,稽古の仕方や段階にもよるけれど基本的には,筋肉を瞬間的に強く締めたり,突いたり蹴ったりするので,ヨーガや太極拳のように,身体を静める方向ではない。だから,空手と太極拳は,緊張と弛緩という陰陽の関係に位置づけることができる。

2014年9月25日

ボディ・スキャン

昨日の夜,身体技法研究会で,マインドフルネス瞑想の一つ,ボディ・スキャンをCDの教示にそってやってみた。50分。

八段錦他の気功をやって暖まった後に,仰向けに横たわって50分間行ったので,少し身体が冷えてしまった。じっとして行う瞑想は,季節や服装を考えないといけない。反省。

それから,絨毯の上だから大丈夫だと思ったけれど,やっぱり,ヨガマットとかの上でやるのが良いことも分かった。50分平らなところに仰向けになっていると,後頭部と腰が痛い。そういえば,自宅で同じボディ・スキャンをやったときにはヨガマットを敷いてやっていた。これも反省。

身体を動かすような身体技法と,こういう座ったり横たわったりする身体技法を,どういう順番でどう組み合わせていくのが良いのか,ベストマッチング,ベストプログラムを目指して,これからもっといろいろ検討していかなくてはいけない。

今,身体技法研究会でやっているプログラムは以下の通り。

スワイショウ
制定(立式)八段錦
開合と站椿
太極気功(深呼吸)
マインドフルネス瞑想 (ここに昨日はボディ・スキャン)
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太極拳(八式,循環八式)
空手(サンチンテンショウ,ナイファンチ)

例えば,静から動になっていくとか,動から静になっていくとか,陰から陽とか,陽から陰とか,陰から陽になってまた陰に戻るとか,何かしら意味というか流れというか道筋があった方が,身体も馴染みやすい気がする。

2014年9月22日

循環ナイファンチ

ナイファンチの形は,最後の右諸手突きの後,再び最初の右大裏受けにつなげれば,永遠に続けることができる。つまり,永遠に左右を循環し続ける。これを循環ナイファンチと呼ぶとすると,循環ナイファンチは,世界が途切れなく変化し続けること,このとき世界は陰が陽になり陽が陰になるように変わり続けていくことを,象徴的かつ身体的に教えてくれる。

楊式にも循環八式というのがあります。たぶん,正宗楊式を謳う傳家が考えた稽古法だ(と思う)。これは楊式の始まりの部分を永遠に続ける(つなげる部分で多少変えてはいるけれど)。スティーブも,套路の中で一番難しいのは,蹴ったり回転したりするところではなくて,最初の始まりの部分だと(Pang先生が言っていたと)言っていた。ここのところを永遠に繰り返す循環八式は,だから,良い。そして途切れなく変化し続ける陰陽も,感じることができる。

2014年9月20日

歩き稽古

正しく歩くと,一石二鳥どころではない。

① 歩いても足が疲れない(甲やすねが痛まない)。
② 内腿が鍛えられるので,武術的に良い稽古になっている。
③ 意識して歩くことが歩行瞑想になるので,マインドフルネスの稽古になっている。
④ O脚が矯正される(あるいは悪化しない)。
⑤ 身体構造的に自然に姿勢が良くなる。するとEmbodied Cognitionからして気分が良くなる。

一石五鳥。

歩くという動作に,一日の中で結構時間を割いている。通勤時や職場での異動,自宅での移動。現代人は座ってばかりの生活,なんて言われるけれども,いやいや,結構歩いているよ。この,歩いているときを全部稽古に当てられるわけだから,素晴らしい。

もういっそ,だからこれを「歩き稽古」と呼ぶことにする。

2014年9月18日

正しい歩き方と歩く瞑想

足を並行に真っ直ぐ出し,母指球で後ろに蹴り出して歩く。これを昨日も一日実行してみた。すると,以前の,足の甲とすねの外側の痛みはなくなった。やっぱり歩き方が問題だったのだ。

この歩き方は,結果的に,内腿の筋肉を使う。内腿が締まるので,骨盤が安定する。骨盤が安定するので,その上に背骨が安定して載り,頭蓋骨も坐りよい(?)位置に落ち着く。つまり,姿勢が勝手に良くなるのだ。

小笠原流の小笠原清基という人が書いた『疲れない身体の使い方』という本を読んでいる。私たち人間は,その骨格や筋肉に見合った立ち方歩き方坐り方をしていれば,疲れないのだとある。でも,長い年月をかけて間違った立ち方歩き方坐り方をしていると,そのために本来正しい身体の使い方に必要な筋肉が衰えてしまって,いざ正しい使い方をしようとすると筋肉痛になったりするというドツボにはまってる,と書いている。(「ドツボ」とは書いてないけれど:笑)

いやまさにその通りだ。こうして正しく歩いてみると,内腿の筋肉がぐっと締まる感じがする。ほんのりと筋肉痛である。それから,土踏まずから母指球にかけての部分が筋肉痛っぽい。しかし,この痛みは,これまでの足の甲やすねの外側の痛みとは全然違う。これまでは,不快に慢性的に痛かったけれども,今の内腿と母指球の痛みは,運動した後の心地よい筋肉痛である。つまり,前者は疲れた痛みであり,後者は鍛えられた痛みである。

『疲れない・・・』でも一番強調されているのが,この内腿の筋肉。大腰筋,というらしい。この大腰筋に限らず,内腿の筋肉を鍛えるのは,O脚の矯正にも良いだろうし,上記のように,姿勢も良くなる。歩くというのは日常で多くの時間を費やしている動作であるから,これを全部稽古にすることができるわけだ。

『疲れない・・・』には,武道ではこの大腰筋を使う,その他各種スポーツもそうだとあった。いや,僕など武道をやってるわけだけれど,全然鍛えられてなかった。反省。この,歩く稽古を,これから徹底していこう。

そして,こうして歩くことを稽古にするためには,歩くことを常に意識している必要がある。つまり,歩行瞑想である。昨日,身体技法研究会では,マインドフルネス瞑想の歩行瞑想を,学生と一緒にやってみた。まさに,ゆっくり歩くという動作に注意を集中するわけだけれども,ちょうどこうして歩く動作そのものの見直しをしたところで,僕としてはグットタイミング。

歩くを稽古にするためには,同時に,実質的には歩行瞑想をすることになる。今までの癖や週間があるから,気を抜いてワンダーするとつい横着な歩き方に逆戻りしてしまう。そうならないためには,マインドフルに歩く必要がある。一石二鳥。一挙両得。お得です。

2014年9月16日

歩き方

ここ数年来,どうも足が疲れるので,靴が合わないのかと思い,あれこれ試したけれども結局,どの靴でも疲れるので,いつものコンバースのハイカットに収まっていた。コンバースを履いていれば,比較的足は疲れない。けれど,長く歩いた後は,やっぱり疲れる。仕事の行き帰りだけで疲れる。どこかに,僕にピッタリの靴はないだろうか。

ホノルルに4ヶ月滞在して,その間,サンダルをずっと履いていた。すると,かなり足が疲れる。果ては,足の甲とすねの外側が痛み出し,すぐに攣るようになった。これはいかん。原因はサンダル履きか。しかし,サンダルはみんなも履いてるぞ。いやそもそも他の人はこんなに足の甲とすねの外側が痛いものなのか。みんな,自分にぴったりの靴を履いてるのだろうか。どんな靴を履いても痛くないのか。

帰国してサンダル履きを止めたら,足の甲とすねの外側の痛みは軽減した。だからやっぱり履き物のせいなのか。そう結論づけそうになりつつあったところ,昨日,なんの経緯か文脈か忘れたけれども,奥さんにそのことを改めて(前からずっと言っていたけど,昨日改めて)話したら,僕は端から見ていて歩き方が悪い,ということだった。それは,「踵(の外側)がすり減る歩き方」なのだそうだ。

踵(の外側)がすり減る歩き方。踵(の外側)をするように歩くわけだから,ガニ股で,つま先を跳ね上げ,踵が地面をずるような風になっている,と。これは自分がO脚だから仕方がないと思っていた。

つま先を跳ね上げるためには,足の甲とすねの外側の筋肉を使う。これは,サンダルを履いて歩くときに,サンダルが脱げないよう,つま先を持ち上げる動作と同じだ。そうか。足の甲とすねの外側の痛みは,歩き方に問題があるのだ。

そこで早速,ネットで「疲れない歩き方」で検索してみた。色んな人が色んなことを書いたり言ったりしていますが,だいたい誰もが共通して指摘しているのが,①親指の付け根(母指球)で後ろに蹴って歩くこと,②足は並行に真っ直ぐ出すこと,の2点。その他,腰の使い方だとか足の動かし方だとか色々あるけれど,全部実行するとこんがらがって歩けなくなるので,とりあえず,この2点,足を並行に真っ直ぐ出して,母指球で後ろに蹴り出して前に進むことを心がけて歩いてみることにした。

なかなか良い気がする。

偶々,これから読もうと手元に買って置いていた,小笠原流の『疲れない身体の作り方』(小笠原清基,アスペクト)にも,だいたい同じようなことが書いてある。まだ読んでないから,そのうちちゃんと読もう。

そもそも,この歩き方は,走り方と同じだ。普通,走るときは,足は並行に真っ直ぐ出すし,親指の付け根(母指球)で後ろに蹴り出して前に進む。そうじゃないやり方では,走るのは逆に難しい。だから本来,走るという動作と,歩くという動作は,構造的には同じなんじゃないだろうか。そんなことは当たり前だと言われるかもしれないけれど(笑),僕の動作はこれまでそうではなかった。

あと,O脚の直し方として,足を並行にそろえて後ろに向かって真っ直ぐ歩く,というのをやっている人がいた。そうか,O脚だから仕方がないのではなくて,今までの「踵(の外側)がすり減る歩き方」がO脚を助長させているのだ。だから,足を並行にそろえて真っ直ぐ出し,母指球で後ろに蹴り出すことで,多少はO脚も矯正されるかもしれない。

というわけで,だいぶ長いこと悩んでいた足の疲れと痛みを解決できそうな糸口が見つかった。ような気がする。

「歩く」というのは,「立つ」と並んで,身体操作の基本だ。人間,誰でも歩く。その歩くという基本的な動作を,人間の身体に合ったやり方で行う。これは,生きる上での基本だ。僕はその基本がちゃんとできていなかった。長い間,徐々に徐々に正しくない歩き方が身に積もり,それが身体の異変として,疲れや痛みという形で表れてきたというわけだ。無理(不自然)を,身体の信号が知らせてくれる。

靴が合わないのだと文明のせいにする前に,そもそも動物としての身体の不自然さに気がつくべきだったなぁと,つくづく思う。歩き方を直すのは難しい。けれど,靴を変えるのは,お金さえ出せばすぐに達成される。人間はだから,つい,楽な方へ,簡単な方へと解決策を見いだそうとする。

さて,これからは,歩き方に意識を向けながら,しっかり歩くことにしよう。他には,普段から「走る」というのを取り入れてみようかとも思う。そうすれば,歩く動作というのがもっと分かるかもしれない。

2014年9月15日

武の旅

術の原理を探っていくのは宝探しのようだと昨日書いたけれども,宝探しってのは,①宝が何なのか(どんなものなのか)分からない,②そもそも本当にそんなのが存在するのかどうか分からない(存在する可能性が高い場合と低い場合がある),という二重の「分からない」があるから面白い。

ここには,サブバージョンがいくつか成立する。

(A)①どんなものかある程度分かっていて,②理論上歴史上記録上,実際,確かに存在する可能性が高い。
(B)①どんなものかある程度分かっているけれど,②それは単なる絵空事(虚構)であって,そもそも存在しない可能性が高い。
(C)①どんなものかほとんど分からないけれど,②理論上歴史上記録上,実際,確かに存在する可能性が高い。
(D)①どんなものかほとんど分からないし,②それは単なる絵空事(虚構)であって,そもそも存在しない可能性が高い。


(A)は,例えば,歴史学・考古学に基づく探索みたいなものかな。背景や周辺の証拠がはっきりしていて,仮説の信憑性が高い場合。アカデミックです。(B)は,徳川埋蔵金とかナチスの財宝とか,あるいは,妖怪やUMAの類を探しに行く探検がそうかもしれない。ロマンです。(D)は,噂程度の未確認情報に基づいて探しに行く,かなり眉唾なお宝探し。シャレです。これらに対して,(C)は微妙である。なにやら凄いものが隠されているかもしれない可能性が高いけれど,それが何だか良く分からない。これは,宝探しの旅に出る,最初の一歩が出にくいかも。

身体の,特に武の妙術を探る旅は,この(C)に近い。ような気がする。

色んな土地で長きに渡って伝えられてきている武術には,同じ人間の行う身体技法なのだから,そういう各種武術に共通する何かしらの共通原理というのが,ある可能性が高い。もちろん個別には,末節の技に違いはあるけれども,本質的な核となるところはきっと同じである。だって同じ身体構造上の最適な操作に関することなんだから。でも,それは早々明らかになるものではない。分かるには何十年もかかるかもしれないし,人間の一生涯では辿り着けないかもしれない。

武術の旅ってのは,そういう面白さです。手がかりとなる目印だとか,確かにこっちの方だというのが分かる証拠だとかを自分なりに発見しながら歩いていく。当然,宝の在処を指し示す地図はない。あるのは先達(師など)の歩いた道,つまり,その先達が歩いたところまで描いた地図のみ。

さて,その先達が間違った方向へ歩いていると,それはそれは大変なことになる。例えば,北に行くべきところで,だいたい北の方へ向かっていれば,北へ向かう道はいくつもあろうだろうから,それはそれでそれぞれ正しいといえるけれども,もし南に向かっていたり,東西に向かっていたら,それはなかなか厳しい。

まぁ,宝探しの旅程に正解はないし,ルートも無数にあるだろうから,本当のところは,宝を探し当てることが目的なのではなく,宝探しの旅をひたすら続けることが目的なのです。

2014年9月14日

空手と太極拳

昨日は,柏道場の稽古でした。

昨日の朝にもちょっと感じたんだけれど,夜の稽古でセーパイを小林先生とやったときに,やっぱりそうかもしれないと思ったこと。それは,空手は,力あるいはエネルギーを身体の中心に集めてくる感じの術なのかもしれない,ということ。

特に那覇手はそうかもしれない。中心の軸に向かって螺旋状に絞り込んでくる感じ。形の中で,一つ一つの動きについて,全てではないけれど,全体的に,手足ともに身体を操作する方向や質がそういう風に働くようにできている。イメージとしては,低気圧の上昇気流のよう。締めることが術の根幹の一つなので,closeする感じ。首里手ももちろん同じ原理だけれど,那覇手ほど際だってはいないかも。

一方,太極拳は緩めることが術の根幹の一つなので,openする感じ。もちろん精神的な中心や身体的な軸が重視されるわけだけれど,その中心あるいは軸から放射状に拡がっていく感じ。やや無理があるかもしれないけれど,対比的に考えれば,高気圧の下降気流のようとも言える。

空手も中国武術にルーツがあるけれど,おそらく那覇手の原型・祖型は南方の白鶴拳や詠春拳辺りだろうし,首里手も北方の少林武術辺りだろうから,いずれにせよ仏教系の外家拳(=少林拳)系統である。だから,太極拳のような道教系の内家拳とは,趣が異なる。

ただ,それでもやっぱり武術として共通する原理があると思うんです。あんまり,何々だからと最初から壁を作ってしまうのは,もったいない。分かるものも分からない。何かあるかもしれないし,何にもないかもしれない。

もしかして,仏教と道教の(思想的な)違いも,こうした身体的な術理の違いに影響しているかもしれない。いや,分かんないけど(笑),なんとなく。

自分なりに究極の原理を探っていく旅は,宝探しのようで,だから面白い。

2014年9月11日

身体技法研究会

昨日の夜,身体技法に関する研究会を開催した。初回。その名も,身体技法研究会。そのまんま。

詳細はこちら

前半は気功と瞑想(マインドフルネス瞑想),後半は武術(空手と太極拳)をやる。ありがたいことに,二人参加してくれました。外国人留学生の一人と,僕の研究室の学部生が一人。

留学生の彼女は,僕の武道論のブログを見てくれていて,それで数ヶ月前にメールをくれた,熱心な学生です。僕の武道論を読んで,だから,たぶん禅などの精神性を重視した武道を習いたい,ということのようだったけど,武術としての形の用法(応用)にも興味があるみたい。良いことだ。

昨日は,一日色々詰め込んで仕事した最後に研究会だったので,体調がやや優れず,そのためにやや早足な進め方だった。反省。

何にせよ,毎週水曜日の夜に,だらだらと身体技法を一緒に稽古するので,学部生・院生はもとより,学生でなくても(一般の人でも),来てもらえればと思う。けど,一般の人は,こんなところまで来にくいだろうなぁ(車も停められないし・・・)。つくづく,筑波は不便だと思う。

是非来て欲しいと思うのは,臨床系の院生。それから,日々仕事で疲れている教職員のみなさん。もちろん,日々疲れている学部生や院生のみなさんもだけれど。

みんな,疲れてるのかな。疲れてるんだろうな。スポーツや軽い運動などを定期的にしていないと疲れが貯まりやすいかもしれない。そういう人は,軽く気功をするだけで,ずいぶん身体が軽くなると思う。来てくれると嬉しいね。


2014年9月10日

捨てる行 その2

いやはや,だいぶ捨てた。すっきりさっぱり。気持ちが良い。後はクローゼット(押し入れ)に入ってる,昔やっていた居合の道具やらパントマイムの道具やら。この辺りもあらかた捨ててしまおう。

こうやってモノを整理すると,奥にしまってあった昔のモノに出会う。こういう再会は引っ越しの時ぐらいしかないから,積もり積もったモノを整理する機会は,5年に1回ぐらいあった方が良いかもしれない。その都度,本当に必要なモノは何かを取捨選択していく。いわば,選抜大会か。

だったら記憶の目印に,ちょうどワールドカップのある年,つまり4年に1回,モノ選抜大会として,この「捨てる行」をしようかね。となると次回は2018年か。2018 FIFA ワールドカップは,検索してみたら,ロシアらしい。ん?そういえば,今年ワールドカップを開催したブラジルも2016年に夏期五輪をリオでやるけれど,ロシアもソチで今年冬季五輪をやったばっかりなのに,またすぐワールドカップもやるのか。どっちもイケイケドンドンですな。

昔もらった写真やら,捨てずに取ってある手紙やらが,ふいに出てきたりする。つい写真をじっと見てしまう。封筒から出して手紙をもう一度読んでしまう。そのときのその人のことを思い出す。そういう幾人もの人の縁で今の自分があることを,改めて思う。ありがとうございます。

10年前に越してきたときには必要だと思って残してあるものが,今となっては必要ないものになっている。捨てる。そうすると,昔のモノはどんどん減っていく。そして,これだけはどうしても捨てられない,というモノだけが残っていく。

そうやって幾多の選抜大会を乗り越えて未だに残ってるのは,小中学校の時に描いた下手くそなマンガ。恥ずかしいぐらい下手くそだけど(だから誰にも見せたくないけれど),微笑ましくて,なんとなく捨てられない。

2014年9月9日

捨てる行

ここ数日,夏休み(およびサバティカル休暇の残り)を利用して,自宅の部屋を一掃している。入居して10年経ったので,いろいろなモノが蓄積している。だから,もう要らない(使わない)ものは全部捨てよう,ということ。

捨てるときに,私たちはつい,「いつか使えるかも」とか「まだ使えるな~これ」とかいった思いが頭をよぎり,捨てずに取っておいてしまう。でも,例えば5年も10年も使ってなければ,たぶん,この先も使わない。だから,とにかく,捨ててしまった方が良い。身軽になりましょう。

つい捨てるのを躊躇してしまう心を断ち切るために,この掃除を,「捨てる行」と位置づけている。つまり,こうしてとにかく身の回りの不要なモノを捨てるという,一つの<修行>なのだ。

人は色んなものを背負い込んで,抱え込んで,さらにはポケットにしまい込んで,口にくわえて,手に握って,脇に挟んで,それを後生大事に手放さないようにして,生きている。そりゃ疲れるさ。だから,要らないものはできるだけ捨ててしまった方が良い。まずは,目に見える物質的なモノから,捨ててしまいましょう。

要るか要らないかの判断は必要だけれど,迷ったら,捨てる。迷うと言うことは,使わない可能性も大いにあるということだから,その「使わない」方に賭ける。何かに必要なものは残しておかないといけないけれど,その何かがはっきりしないものだとか,その何かをする可能性が限りなく低い場合は,たぶん,そのモノは,必要ない。

だから,じゃんじゃん,捨ててしましましょう。で,捨てるのはもったいないから,今度からはモノを買い込まないようにする。モノなんてこうしてどうせ要らなくなって捨てるんだから。物質的なモノは,そのときはものすごく欲しいと思っても,いつか価値は無くなるんだから。

もちろん,時間を経ても価値の変わらないモノもあります。でも大概は,いずれ価値は無くなる。だから,モノはできるだけ買わない方が良いのだ。でも買ってしまうときは買ってしまうんだよなぁ,つい(笑)。

2014年9月8日

系譜

ページトップに「系譜」という見出しを一つ加えました。ここに,私に関する,空手と太極拳の系譜,つまり,師弟関係を示しました。

で,この,一本線になっている系譜ってのは,「錯覚」だということです。例えば,私の空手を辿れば,糸洲安恒先生と東恩納寛量先生に辿り着きます。太極拳の系譜を辿れば,楊露禅先生に辿り着いてしまいます。それが一本の線で表現されます。凄いですね。でも,これ,私という個人的な視点から見た「錯覚」です。

どういうことかというと,各師には,それぞれ他にも弟子がいますから,実際は,下に行けば行くほどミラミッド型に増えていくわけです。しかし,「私」の系譜にとってそれは関係ないですから,捨象します。すると当然,こうして一本の線になります。

弟子の数がそれぞれどのくらい多いか少ないか,つまり,その先生が多くの弟子を取る人だったのかそうでなかったかによって弟子の数は違いますから,単純な三角形にはなりませんが,いずれにせよ,間違いないのは,本当は私はそういうピラミッドの底辺の一つだということです。それでも,「私」という個人的な視点から系譜を眺めると,こうなるわけです。

「私」という視点がいかに特殊かがこれで分かります。でもそうやって人は自分の物語や系譜を紡ぎ,伝統や歴史の中に自分を位置づけ,安定感・安心感を得ようとします。根(root)を求めます。

こういう系譜を見ると一瞬凄いように思えますが,繰り返しますが,それは「錯覚」です。しかし人はそれぞれ,こういう自分に都合の良い様々な錯覚の中で生きていくわけです。ご多分に漏れず,私もその一人です。その方が幸せだからです。

ただ一方で,こうした系譜さえも辿れない曖昧なところで空手や太極拳をされている方も多々おられると思います。つまり私がそもそもこうして系譜を辿ることができるのは,小林真一先生に空手を,Steven Youngに太極拳を習えているという幸運があってのことですから,そこはまさに先生に感謝,武縁に感謝です。

2014年9月7日

ネガティブ

自分の中では日誌(日記)的な位置づけにしたこのブログに,早速,一体何を書こうかと考えたけれど,特には浮かばない。日々生活していて特別に突出してこれを書きたい!という時ってのはそんなに訪れるものではなくて,ただ,まぁ,できるだけポジティブか少なくともニュートラルなことを書こうとは思う。

人はついネガティブになりがちで,気がついたらネガティブな思考が頭の中をぐるぐる回転している。これをマインドワンダリングと言います。マインドワンダリングは常にネガティブってわけじゃないけれど,しばしばネガティブになりやすい。もちろん,個人差はあります。

でもってブログに書こうと思うことはしたがって,ネガティブなものになりやすい。考えていることを書くわけだから。これを避けたい。でないと,なんだか暗いブログになるからね。

いや実はさきほど一通り書いて公開したんだけれど,どうにも暗い内容の投稿になってしまったので,いったん全部消しました。やり直し。で,今もう一回,最初から書き直しているわけです。

といって,何か書くことがあるわけでもなく,だから,本日はこのくらいで。

2014年9月6日

湯川ポテンシャル。

さて,ブログのタイトルをどうしようかと思って,「湯川式」とか「湯川流」とか考えながら適当に検索してたら,偶然見つけた,「湯川ポテンシャル」。

湯川ポテンシャル。湯川がポテンシャルだぞ。なんだかスゴいぞ。

と思ってWikiを見てみると,ご存じ,かの湯川秀樹博士が考えた物理学の式(概念?)ということ。うううむ,良く分からない。難しい式が書いてある。素粒子物理学。ずいぶん遠い世界だ。けれど,本来の意味はともかく,なんだか語呂がカッチョイイので,ブログのタイトルに借用。「湯川ポテンシャル」だと,物理学(者)のサイトかと間違われるかと思い,最後に「。」を付けました。効果があるのかないのか定かではないですが。

で,このブログですが,何か書きたいことがあったときのために,とりあえず開きました。特に何を綴ろう,という目標も目的もありません。雑感,記録,意見,要望,コメント等々,適当に。ユルく。


この前まで書いていたホノルル滞在記(檀山式身体心理学・序説)のときも最初に書いたけど,要は,ブログという媒体は,オープンなので,他者の目を意識することで客観的に自己を見つめることができる,という利点があるわけです。

誰かが好き好んで僕個人のブログをせっせと読むとはほとんど思えないけれど,仮にそういうありがたい読者がいることを想定することで,あるいは,検索したらたまたま辿り着いてしまってつい記事を読んでしまって無駄な時間を過ごしてしまったと後悔の念に押しつぶされている不運な読者がいることを想定することで,そういう他者の視点を利用させてもらって,客観的に物事を綴ることができる,そういう装置というかツールだと,そう思うわけです。

思ったことがあれば自分一人でノートにでも書けばいいじゃんとか,パソコンのワープロソフトで書いて保存しておけばいいじゃんとか,まぁ,もちろんそうなんだけれど,こうしてパブリックに書く,というところに,僕個人にとって,若干の意味というか利があるわけですね。

副題は「身体を練る,心を練る」ということで,一応,身体心理学とか武術とか武道とか身体技法とか,そんな観点からあれこれ書きたいとは思っていますが,たぶん,一定しないと思います。甚だしくブレまくると,大いに予想されます。