2014年12月29日

強さへのこだわり

山田英司氏の『八極拳と秘伝:武術家・松田隆智の教え』を読んだ。感想は書評ブログ「本と知」に書いたけれど,伝わるのはこの山田英司という人の執拗な「強さへのこだわり」である。

誰それが強いとか弱いとか,上手いとか下手だとか,何々流や何々拳は効くとか効かないとか,そういうのはいろんな条件が重なるから一概には規定できないことは明らかなのに,人はなんでそう比べたがるのだろうか。

この人は若い頃,大学を卒業して仕事をしながら,毎日6時間稽古したそうである。山田英司氏と言えば,『武術』『月刊空手道』『フルコンタクトKARATE』である。だから才能あふれる超人的な人であることは間違いない。うううむ,だけど,プロ格闘家でも職業的な専門家としての武術研究家でもないのに,その情熱と動機づけは一体どこから来るのだろうか。今は半ば稽古が仕事かもしれないから,そうなればあまり違和感はない。その生活がそのまま仕事になってるんだから,職業武術家である。

何か稽古をしたらそれを試したいという気持ちは分かる。でも結局,試して実感したからと言って,何か意味があるんだろうか。そのときは少し気分は良いかもしれないけれど,だから何なんだと我に返って考えてみて,何か意味が見いだせるのだろうか。意味なんか見出さなくても良いけれど(そもそも世の中に本質的に意味のあることなんてないけれど),でも僕からすると,強さを試すなんてそんな些細なことはどうでも良い気がするんです。

エンターテイメントとしては,強いとか弱いとかは,面白い。映画だってマンガだってプロレスだって,面白い。ボクシングやキックや総合なんかの格闘技も,見ていて面白い。映画やマンガやプロレスは予定調和だけれど,格闘技の試合を見ていれば,だいたい強い人は強いものの,いつかは負ける。あるいは,ミスとか体調不良とか偶然のラッキーパンチとかでどんでん返しもある。だから面白いという面もあるけれど,だけど強さはだからこそ一概には決まらない,ということを示してもいる。

強い弱い,勝った負けたを決めるのはだから,統制する条件があまりにも多すぎて,本当に強弱や勝ち負けや効き具合を判定しようとしたら,永遠に不可能なわけである。そんな曖昧な条件設定でどうして良い悪いの価値判断ができるのか,僕にはよく分からない。だからそうして強いとか弱いとか勝つとか負けるとかにこだわるのは,無意味とまでは言わないけれど,なんだかとてもむなしい作業に思えてならない。

職業的なエンターテイメントとしてプロ格闘家が強い弱いにこだわるのはよく分かる。それが商売だからです。曖昧な条件でもとにかく闘って,勝った負けた,強い弱い,とやるのがプロだから。それで客が楽しめるわけだから。でも,これをアマチュアがやると,なんだかむなしく思えてくる。アマチュアが強い弱いを競い合って,一体どこに行きたいのか。

もちろんアマチュアでも,目の前の相手に勝つ喜び,その場に限っては強いことが少なくともその相手に対して一時的に証明できる喜び,それ自体は分かる。でもそれはそれで,喜びはいつまでも続くわけじゃない。そうするとまた次の喜びを得ようと・・・という具合に,永遠に尽きない。つまり永遠に満足できない状況が続くわけで,ましてや負けようものなら,ますます気分は悪くなる。勝ち負けや強い弱いにこだわるからそういうことになる。きりがないんです。

でも人はなんでそう比べたがるんだろうかね。比べる理由が分からないということじゃなくて(それは進化心理学的に説明できるからある程度解決しています),そうじゃなくて,人間ってのはどうしてそういう習慣というか癖というか性というか業というか,そういう傾向から抜けられないのかなという,そういう嘆きです。比べたがるのは何も武術的な強弱だけじゃなくて,世の中だいたい他者との比較で成り立ってるからね。だから,嘆きです。自分も含めて。

ご多分に漏れずもともとは強さへのあこがれをもって武術を始めたけれど,今はもう強いとか弱いとかはどうでも良い。それは上に書いたとおり。無意味だと思うから。むなしいから。効くとか効かないとかはまだまだ興味があるけれど,それは術そのものとして興味があるだけで,誰それがその術が上手いとか下手だとかには興味はない。それも無意味だから。

2014年12月21日

アラフォー

40歳を超えて3年,このところつくづく思うのは,どうも30代と比べて身体の仕様が大きく変わったような気がする,ということだ。あちこち痛いし,疲れるし。

女性によく言われる更年期障害だけれど,もちろん,男性にもある。メカニズムは加齢とストレスによる男性ホルモン(テストステロン)の低下らしい。症状としては疲労,不眠,うつなど。だからきっと身体の仕様が変わった感は,こうした内分泌系の変化も原因の一つに違いない。

別に40歳を区切りにがらりと一変するわけではないけれど,分かりやすいからとりあえず「40歳」あるいは「アラフォー」という区切りを使って理解することにして,いずれにしても何となく身体の仕様が変わったような気がする。

だから,それに見合った身体操作を身につけていく必要があるんじゃないか。20代や30代の動きを求めるべきではないし,そもそも求めたところで何の意味もない。20代30代と同じ身体仕様のつもりで生活していると,そりゃあちこち痛めるし,疲れます。この夏にやったギックリ腰も,その一つの現れだ,きっと。

稽古とは,だから,変わっていくものなのだ。稽古の内容は,年齢とともに変わるのだ。50代,60代,70代になっても,20代や30代と同じものを求めていくのは,なんだかとても奇妙だし,根本的に間違っている気がする。なぜなら,身体は変わっていくのだから。

そうして変わっていく技の内容は,思想的技術的な成熟とも言える。そしてそれは,身体的な仕様の変化に柔軟に対応した,心身の変化の現れでもあるだろう。

合気道の植芝盛平翁の技は,若い頃は荒々しかったものの,晩年は徐々に柔らかくなった,というようなことをどこかで読んだことがある(したがって,いつの植芝翁に習ったかで,弟子ごとに技が違う)。これは,純粋に技術的な成熟である一方,その成熟は植芝翁の心身の変化と相まって生じたものに違いない。

そういうタイミングに,流れの中でタイチーと出会ったのは,これもまた何かの縁,まさに武縁です。縁に感謝。

2014年12月15日

コラム

月刊『秘伝』という,武道・武術の専門雑誌で,先月から私のコラムが始まりました。昨日発売の2015年1月号(12月14日発売)が,コラム連載第2回です。


「心理学から解く武道と日常構造」というタイトルで,心理学と武道と日常について,書いています。見開き1ページの小文ですが,興味関心のある方は是非ご一読くださいませ。

2014年12月2日

走る

冬場はつい,手をポケットに入れて歩いてしまう。腕を振って歩いた方が楽なのに,寒くて身体が縮こまる。姿勢も悪くなる。

しかし,依然,足が気になる。特に膝から下。いや,太股から腰まで全体か。筋肉痛のような,疲労のような,痛みのような。特には膝から下。すね。年を取るとこんなものだろうか。それともこういう痛みや違和感は誰でも感じるものであって,そのことに意識を向けるからそう感じるだけなのだろうか。

色々歩き方を試している。一日終わって疲れるときと,痛いときがある。そこのところの弁別をクリアにしていって,要因を絞り込んでいく。

とりあえず,手袋でもして,腕を振って歩いた方が,良い。腕を振って歩く。スワイショウウォーキング。

しかしそう思うと,一度,ウォーキングの教室で,歩き方を教えてもらいたいなと,思う。それに,そもそもジョギングでもして,少しぐらい走った方が良いような気もする。だんだんと走れなくなってるような気がする。気がついたら生活の中で走ることはほとんどない。走らなくなったから,歩くバランスも悪くなっているのではないだろうか。

走ろうか。動物なんだから,少しぐらい走った方が良いんじゃないか。