2021年5月8日

パフォーマンスとしての授業

コロナ禍で都内の大学などは未だに遠隔(オンライン)授業が続いているところもあるようですが,栃木県南にある我が白鷗大学は現在,ありがたいことに原則,対面授業です(実際は,7~8割対面,2~3割遠隔,ぐらいでしょうか)。

やはり授業は対面でないと面白くない。私も面白くないし,学生も面白くないでしょう。なぜなら,授業はパフォーマンス,大道芸と同じだからです。私はかつて大道芸人をしていましたが,当時ストリートでパントマイム・パフォーマンスをしているときの感覚と,現在大学で授業をしているときの感覚は,基本的に同じです。

(二十歳頃の私↓)

遠隔授業では,主に授業動画を作成して,学生が視聴するわけですが,せいぜい上半身を見せたりするぐらいで,決して動き回ってしゃべりません。事前に録画・録音するので,目の前に学生はいませんから,オーディエンスの反応を見ながら場を作っていくようなライブ感はありません。

授業,特に講義は,知識を伝えることがメインかもしれませんが,単なる知の伝達なら本を読めば済むわけです。特に大学の授業というのは,その授業の担当者の研究者としての専門的な業績や経験なども踏まえて展開されますから(展開される「べき」ですから),実際にしゃべりながらアドリブで話が広がったりつながったりすることがしばしばあるわけで(私の場合はそうなのですが),それは,事前に録音する場合では限界があります(オーディエンスの反応が見えない分,アドリブや脱線が減ります)。

やっぱり,大学の授業は,研究者としてのアドリブや脱線が面白いわけです。そこにこそ,共鳴・展開される知の体系があるわけです。そうやって生の教師が生でしゃべるから,学生も生で聞いて生で疑い生で考える,だから面白いのです。学生も,自宅の部屋で一人で画面を延々と視聴するのは,ある種の苦行なんじゃないかと思うと,とても可哀想です。

オンデマンド動画の作成はラジオ番組のようだと言っていた先生がいました。確かにラジオ番組の録音は,けっこう孤独な収録なんだろうなと想像します。ただ,ラジオ番組とて,オーディエンスがゼロかというとそうではなく,多くは複数で放送していたり,そもそも,録音しているスタッフがガラス越しにいますから,決して一人孤独に録音しているわけではありません。一人孤独に録音・録画するのって,ふと我に返ると(つまり,自分をメタに認知すると),悲しくなってくるんですよね(笑)。

プロの芸人なら無観客でも最高のパフォーマンスを見せるべきだという意見はごもっともであり,同じように私もプロですから,全力で授業動画作成をしています。ですが,やっぱり,オーディエンスとともに作り上げるライブ感,つまり,動きしゃべり止まり歩き声を出し指を差し語りかける,そんな身体的なパフォーマンスとしてのリアルなライブこそが本当の面白さなのであって,聞いている学生からしたら,ただ画面を見ているだけじゃつまらないだろうなとつくづく思っています。

大道芸人のみなさんは,苦肉の策として,YouTubeなどでその卓越したパフォーマンス,日頃の鍛錬の成果としてのパフォーマンスを配信披露されていますが,その悔しさ苦しさ悲しさたるや,筆舌に尽くしがたいと思います。本当ならストリートに立ちたい。そこが大道芸人の本来の生きる場所なので,オーディエンスの見えない画面越しのパフォーマンスは,本当のところ,無意味なのです。ストリートじゃなきゃ意味がないのです。芸人のみなさん,なんとかこらえて乗り越えましょう。

遠隔授業がまったく無意味だという意味ではありません。例えば,色々な理由でキャンパスに通えないことはありますので(例えば,遠方であるとか,病気や怪我であるとか,経済的なことだとか),そういう場合は有効な手段だし,今後も必要に応じて使われていく授業形態だと思います。学習効果としては概ね同等かもしれませんが(何をもって学習効果とするかは多面的に評価されるべきなので一概には言えませんが),ただやはり,面白いかというと,正直,対面に比べたら面白くないでしょう。もちろん,面白い遠隔授業をする先生はたくさんいると思うし,プロとしてはその辺の創意工夫は可能な限りするべきだと思います。ただ,私の場合は,だんぜん,対面の方が面白い。根が大道芸人だからだと自己分析しています。

感染がなかなか収まりませんが,いつの日か,マスク無しで授業ができることを夢見ています。マスクしてるだけで,学生に表情が伝わらず,身体的なパフォーマンス性がかなり低減しますからね。


2021年5月5日

ギヴァー 記憶を注ぐ者

(原題:The Giver)(アメリカ,2014)

出生も家族も職業も言葉も服装もすべて管理統制された近未来。人々は毎朝必ず(感情を抑制する)薬の接種が義務づけられている。争いのない平和な社会に生きる主人公ジョナスは,職業を告げられる儀式の日,「レシーバー」となることを告げられ,「ギヴァー」の老人から特別な教育を受けることになる。それは,過去の人類の記憶であった。

管理統制された近未来で感情を取り戻すという物語は,よくあるパタンであり,本作もその一つ。ではオリジナリティとしてどういう管理統制社会を描き,どうやって人間らしさを取り戻すかが見所となるわけですが,ここでは,この社会で唯一特別な地位を与えられている「記憶を継ぐ者」になる,という設定です。この記憶の継承者の役割は,人類の記憶を受け継ぐことで,社会の助言者となるというもの。主人公のジョナスは,その資質からこれに選ばれる。そして,記憶の継承は,精神感応のような特殊な方法で行われる。

ありとあらゆる記憶を受け継ぐわけだから,管理統制されている社会では誰もが経験したことのない喜び,悲しみ,痛み,などをジョナスは次々と経験することになる。そもそも,「色」という概念がない管理社会で育ってきたジョナスはまず,ありありとした「色」を感じる喜びから経験していく(映画は冒頭からずっとなぜか白黒なのですが,このシーンでようやくその意味が分かります)。

雲上の丘に作られた近未来の街は簡素だけれど清潔であり,何も不自由はない。だからこの社会に馴染めば何も問題はありません(映画としても,それほど冷淡な社会としては描いていない。若者も,規則に沿いながら,それなりに笑顔で人生を楽しんでいる感じ)。しかし,色もダンスも音楽もないこと,「愛」という感情がないこと,「解放」という名の死(人工統制=殺人)が出生時と老後に機械的に行われること,それに対して人々が何も思わないことに主人公は強い疑問を感じるようになります。

物語の最後として,主人公がこの歪んだ社会を一挙に解決する方法を求めて突き進んでいくわけですが,その方法がなぜ問題の解決になるのか,その理屈というかメカニズムが良く分からないのがちょっとどうかと思いました。なんかもっと工夫のしようがあったんじゃないかなぁ。そもそもこれ,映画ではかなり端折られていますが,同名の有名な小説の映画化らしいので,もしかしたら,原作の方はその辺りもっとよく練られているのかもしれません。

★★



2021年5月4日

ラスト・デイズ

(原題:Los Ultimos Dias)(スペイン,2013)

建物の外へ出られない。実際は出ることができるのにただ単に出られないというだけの心理的な問題(恐怖症)ではなく,実際,外に出ると心臓発作を起こしたり耳から血を流して絶命するという,恐ろしい症状が世界中に蔓延する。未知のウィルスによる伝染病なのか,地球外生命体か何かによる超科学的攻撃なのか,原因は全く分からない。しかし,徐々に世界中で同様の症状が広まっていき,やがて世界は機能停止する。そんな中,会社の入っているビルに閉じ込められたプログラマーのマルクは,遠く離れた自宅にいるはずの妻を探しに行く決意をする。

AIの暴走や宇宙からの侵略者やゾンビウィルスによるアポカリプスを描いた映画だと,ロボットやエイリアンやゾンビを相手に地上で繰り広げられる戦闘を中心に描かれることが多く,その日常性(そもそも水や食料や服はどうやって確保してるのかとか)はどちらかというと後景に追いやられます(説明が割愛されます)。これに対して,この『ラスト・デイズ』では,ロボットやエイリアンやゾンビといった明確な敵がいるわけではありません。単に自分たちが「外へ出られない」という症候群にかかってしまうといった,具体的な解決策(敵)が見当たらない不条理で絶望的な状況なのがポイントです。

この症候群の場合,地下鉄や下水道経由で移動できるぐらいで,あとは建物内や地下で暮らし続けるしかありません。コンクリートで覆われた都市であれば,やがて食料や水は底をつくことになります。なので,鳩やネズミを生け捕ったり,雨水を集めたり,当然ながら手持ちの食料の奪い合いになったり,といった日常性が丹念に描かれます。つまり,災害が起こって都市機能が完全に麻痺したときに人はどうなるか,文明的な都市に住む現代人がそんな混沌とした世界でどうやってサバイバルしていくかという,まさに「末世」の世の中を描いた映画ということです。

ただ,人類という種はなかなかしぶといと思うので,もし本当にこういう状況になったら,私のような体力のないひ弱な人間はすぐに息絶えると思いますが,タフな一部は生き残り,地下鉄や地下道を巡らせた地下都市を築いて,そこで農業や畜産をし始めるだろうなと想像します。

と,色々と想像が膨らむこの「外へ出られない症候群」というヘンテコな設定は,今まで観たことのない設定だったので,面白かったです。ロボットやエイリアンやゾンビに飽きた人は是非。

★★★


いのちが目覚める原初のヨーガ:解説と実技

塩澤賢一(2021)新泉社

ヨーガとは本来,こういうものです,というのが分かる本です。ヨーガ(ここではハタヨーガ)が何をしているもので,何を目指しているのか,何を味噌としているのかが,対話形式で書かれています。対話は,ライターの高山リョウさん(塩澤師の弟子でもある)が聞き手となって,丁寧に進んでいきます。

特に聞き手である高山さんが,忌憚のない,正直な質問(すなわち,ヨーガを教える立場ではなく教わる立場としての質問)を,塩澤師に投げ返すことで,丁寧に一つ一つ解説されていくのは,読者にとって親切です。

本書の構成は,この,対話部分と,対話で出てきた動作に関する実技部分でなっています。さらには解説動画も手に入れることができますから,本のイラストだけでは分からない動作は解説動画で補えます。

個人的に特に参考になったのは呼吸とマントラについてです。「オーン(オウム)」を改めて考えて,実際にやってみる機会になりましたし,「スーハム」の話はとても参考になりました。ヨーガのリズム,呼吸のリズム,呼息と吸息の間の意味,プラーナの話,仙骨の話,いずれも興味深いものばかりです。「意識を向けたところにプラーナが集まる」というのは,気功における気の話と同じなので,東洋的な身体技法の共通点ですね。

実技の中から,やってみたいと思うものを,毎朝の稽古に取り入れて早速やっています。アメリカ的?なフィットネス的な現代ヨガ(「ヨーガ」ではなく「ヨガ」)ではない,インド伝統の本来のヨーガに触れたい人,垣間見たい人,自分も少しやってみたい人には,一読に値する絶対オススメの本だと思います。


2021年5月2日

オブリビオン

(原題:Oblivion)(アメリカ,2013)

時は2077年。60年前に突如現れた侵略者(異星人スカヴ)との戦争にかろうじて勝った地球人は,しかし,戦争のために荒廃した地球を捨てて,土星の衛星「タイタン」へ移住した。地球では,海水を吸い上げてエネルギーを作るためのプラントがあり,これをスカヴの残党から守らなければならない。主人公ジャックとヴェカは,タイタンへの移住中継所としての宇宙ステーション「テット」の司令官サリーと通信をしながら,5年間の任務に就いている。その任務もあと2週間で終わり,ようやくタイタンに戻ることができる。

地球では,スカヴからプラントを守るために,ドローン(球形の兵器)が飛んでいて,ジャックはプラントの監視とドローンの修理が任務であり,ヴェカは住居兼基地のタワーでテットとの通信とジャックのフォローをしている。ただ,二人は,任務遂行のために5年前の記憶は消去されている。敵のスカヴに記憶が盗まれるとマズいからだ。

ここまでで,かなり作り込まれた世界観であり,並の映画ならこの設定だけで異星人とドンパチやるところだが,この話はもちろんこれで終わらない。なぜならジャックには,どういうわけか侵略戦争前の記憶,つまり,60年前の2017年のスーパーボールの記憶があるのだ。そして,見知らぬ女性と侵略戦争前のニューヨークでエンパイヤステートビルに昇る夢を何度も観る。その頃に生きていたはずはないのに。

つまり,この映画は単なるエイリアンパニック映画ではありません。いわゆるSFサスペンス映画ですね。映像も全体にクリアで,出てくる建物や乗物やガジェットもスタイリッシュです。ドローンのメカニカルな動きも不気味さや冷酷さをよく出してるし,荒廃した地球の様子も随所に挿入されていて壮大です。思わず2度観てしまいました。それぐらい,面白くて,よくできています。

ちなみに,タイトルの「オブリビオン」とは,忘却とか忘我という意味です。

★★★


2021年5月1日

オートマタ

(原題:Automata)(ブルガリア/アメリカ/スペイン/カナダ,2014)

アントニオ・バンデラス主演の近未来SF。時は2044年。太陽フレアの影響で砂漠化し大部分が汚染された地球に残された人類は2100万人。労働力不足を補うために,ROC社は人型ロボット・ピルグリム7000型を開発した。工場での作業から家事まで担うロボットには,2つの遵守すべきプロトコルが組み込まれていた。それは,

(1)生命体に危害を加えてはならない

(2)自他のロボットの改造を行ってはならない

というルールであった。ROC社の保険代理人であるジャック・ヴォーカンは,ある日,自己改造をしている疑いのあるロボットの調査を言い渡される。つまり,2つめのプロトコル違反というわけだが,通常,プロトコルを書き換えることはできない。ではなぜ?

ここから誰でも思うのは,いわゆるアイザック・アシモフのロボット工学三原則(ロボット工学ハンドブック第56版,2058)ですね。

First Law: A robot may not injure a human being or, through inaction, allow a human being to come to harm.(人間を傷つけてはいけない。あるいは,人間が傷つくのを看過してはいけない)

Second Law: A robot must obey the orders given by human beings except where such orders would conflict with the First Law.(人間の命令に服従しなければならない。ただし,第一法則に反しない限り)

Third Law: A robot must protect its own existence as long as such protection does not conflict with the First or Second Law.(自己を守らなければならない。ただし,第一法則と第二法則に反しない限り)

これに対して本作『オートマタ』のプロトコルはシンプルであり,とにかく「生命体」に危害を加えてはいけないことが第一原則なのですが,この映画のポイントはむしろ,2つめのプロトコル=改造の禁止,にあります。

映画としては,ロボットやアンドロイドが出てくる映画にありがちな,「自己」や「意思」や「感情」を持ち始めた特異な単体を巡る話なわけですが,そんなロボットやアンドロイドが人間に反抗したり復讐したり反乱を起こしたり,という映画はありません。君は君,私は私,それが自然の流れ,という落ち着いた(人間VSロボットでドンパチはやらない)映画であり,むしろ,そんな流れに人間の方がおろおろし,うろたえ,無茶をする,そういう人間の悲しさや愚かさを描いています。アシモフのロボット工学三原則ではないところが,物語に深みを与えています。ただ,後半はちょっとダレるかなぁ。やや間延び気味。

オートマタ(automata)は,オートマトン(automaton)の複数形で,いわゆる中世から近代にかけてヨーロッパで作られた「自動人形」(機械人形)のことですね。日本でいうところの「からくり人形」です。

★★