2014年11月24日

分析的に動く

笠尾楊柳(恭二)先生の著書,「太極拳に学ぶ身体操作の知恵」(BABジャパン)を読んだ。2009年の本。もうすでに多くの太極拳家や武術家が読んでいるんだと思う。

随所に良いことが書いてある。書評にも書いたけれど,太極拳をやる人はもとより,武術をやる人は,読めばどこか一つはきっとためになる。そんな本です。

僕がここは良いなと思ったところの一つが,ゆっくり動くことの利点。緩慢に動くことで,分析的に技を練ることができる,と言う話。技の起こりから極まるところまで,丁寧に練ることができるので,その中で動きの無駄を削っていき,技を精錬させていくことができる。

そう。その通りなのだ。この感覚が今まで上手く言葉にできなかったのだけれど,こうして言葉にされていて,とても納得。そう。これはマインドフルネスなのだ。

太極拳はだから,マインドフルに分析的な武術なのです。全身の身体感覚の微細な流れに万遍なく意識を向けた,高度に分析的な身体修練法なのですね。

空手もだから,サンチンの感じで,ナイファンチを練るのも良い。サンチンも,締めないでやってみる。テンショウもゆっくりやる。スピードやリズムを変えてみる。粘るように練ったり,力を抜いて動作したり。あれこれやってみる。

空手には他にもたくさん形があって,それぞれに良いけれど,突き詰めるほどに,他には要らない気がする。原理的に極まっているこの3つ,結局この3つで良い気がする。この3つの形を,いろいろなリズムやスピードで分析的に稽古する。それだけで十分楽しいし,それだけで武術的にも十分な気がする。

2014年11月19日

推手

太極拳には,推手,pushing hands (push hands) という稽古がある。

中国にはその競技もあるらしいけれど,何でも競技にすれば良いってもんじゃない。確かに競技にすればそれをする人が増えて,普及には役立つだろうけれど,youtubeを見る限り,手を掴まないルールの単なる相撲にしか見えない。

ああして,実際に他人とやりあって,何かしらの手応えを感じたいのだろうけれど,まずもってルールが微妙な気がしてならない。どこがどう推手稽古の成果なのか,あるいはどの辺りが推手の威力なのかが,見た目では全く分からない。なのに審判がいて勝ち負けの判定をしたりしているということは,何かしらルールがあるのだろう。そしてそのルールは,推手の技術の高低をきちんと判断できる基準なんだろう。そうでなければならない。しかし,そうなっているようには,どうしても「見た目には」思えない。

あと,推手の表演競技(二人で行う演武競技)というのもあるらしく,これもyoutubeで見ました。まぁこれは,こうして人に見せるために日々稽古するのが稽古になっていて,それはそれで良いと思う。だけれど,その善し悪しを試合(大会)で「競う」という発想が,何とも違和感を覚える。何でもかんでも競技にすれば良いってもんじゃない。どうして人はそんなに他人に見せたり,競い合ったりしたいのだろうか。勝ち負けなんてどうでも良い気がするのだけれど。やっぱり,何かしら手応えというか手がかりというか,明確な評価のような,そういうものを感じたいのだろう。

そういう,競技どうこうではなく,本来の稽古法として,推手は良い。ように思う。というか必須な気がする。ホノルルにいるとき,スティーブやロバートには習わなかったから,ちゃんと習ってみたい。

ただ,空手にはカキエという稽古法があり,これは英語でpushing handsとかhooking handsとか訳されたりしています。おそらく,やろうとしていること,目指していることは同じです。詠春拳にも,チーサオとかありますね。

二人で行う稽古だから,相手がいないとできないけれど,お互いの気(力具合と意思)を感じる,優れたエクササイズな気がするから,推手でもカキエでもチーサオでも良いから何かしらの形で,やりやすい方法で,取り入れていきたい。

2014年11月14日

歩く2

ロルファーの藤本靖さんの本を読んだ。『引っぱって,ゆるめて疲れない身体になる方法』。書評は,「本と知」のブログの方で。

さて,本書に,歩き方について書いてあった。グッドタイミング。さて藤本さんは,疲れない歩き方をどう考えているか。詳しくは本書を見てもらえれば良いのだが,結論を言うと,「でんでん太鼓」のように,手を振って歩く,である。

でんでん太鼓。

そう。でんでん太鼓と言えば,スワイショウです。そうか。そういうことか。
要するに歩くのを,スワイショウだと思えば良いのか。スワイショウウォーキング!

確かにスワイショウは,体軸を中心に据えながら,体幹の筋を使ってバランスよく振ることが求められるし,また,そこんところが鍛えられる,非常によくできたシンプルで奥の深いエクササイズだ。この,スワイショウを歩きながらやるつもりで良いのかもしれない。

藤本さんは,もちろんスワイショウとは書かずに,でんでん太鼓のように,と書いているだけですが,良いヒントになりました。試してみる価値ありです。

なお,前回書いた,足を上げながら行進するように,というのはどうも間違いでした。疲れないけど,かなり意識しないと歩けないし,そもそも,なかなか前に進みません(笑)。

基本は足(足首以下)は真っ直ぐに,というのは正しい。それにもう一つの基本は,やはり後ろに蹴り出すのが良いみたい(推進力は出ます)。でも,あんまり「蹴り出そう」と意識しすぎると,これまた疲れます。ふくらはぎと裏ももの筋肉が張ります。だから,その場合はもう少し柔らかく,優しく,穏やかに,自然に。

これにスワイショウを加えて歩いてみよう。スワイショウウォーキング。(と思って検索したら,やっぱり,そのまんま「スワイショウウォーキング」と表現して実践されておられる方がいました。)

なお,ネットで検索するに(とある本にも書いてあったりする),「太極拳歩き」とか「タイチーウォーク」というのもある。ただこれはまたこれで,どうもちょっと違うものを指しているようなので,またいずれ,調べます。

いろいろ広がるなぁ。

2014年11月12日

歩く

つくづく,歩くというのは難しい。どういう歩き方が,本来,人として正しいのか。

小笠原流にあるように,足(足首から下の部分の足)を真っ直ぐ(両足を並行)に出す,というのは一つ,これはまず間違いない。足を外に開いて出す歩き方は,足の甲(外側)と脛(外側)を痛める。一方,足を内に閉じて出す歩き方は,膝(内側)を痛める。両方意識的に試してみて確認したから,たぶん間違いない。

ちょうど良いのは,やはり真っ直ぐ並行に足を出すことだ。

それでもまだ僕の歩き方は,足がだるくなりやすい。

どうも靴の踵が相変わらず減っているようなので,昨日から試しに,意識的に少し大腿(股)を上げる(結果的に膝を上がる)ようにして歩いている。見た目には(あるいは感覚的にも),若干,運動会の時の行進のような感じになっている。

これで良いのかどうか分からない。

ただ,もう少し股の筋肉,特に内股(股間)と腹の筋肉を使って,足全体を引き上げながら歩いてみようと思う。

これもまた実験。試行錯誤。歩くのは実に難しい。

2014年11月6日

空手の武術性

先週末,宗家の元を訪れ,いつも以上に増してじっくり空手に向き合う機会をいただき,改めて空手とは何かを考えるきっかけとなった。というのも,一方で気功・瞑想・武術(太極拳と空手)の研究会をしていて,空手の位置づけというものを常々考えていたからでもある。

空手は武術性が強い。太極拳に比べると,という話ではあるけれど。

スワイショウや八段錦や開合や站椿などの各種気功の技法は,太極拳と相通ずる,というかこの辺りは根っこが同じなのか歴史的に融合していてきたのか分からないけれど,基本的に同じ身体操作をしている。いずれも,気を練る体感は同じです。動作や呼吸のリズムあるいはスピード,流れが同じだと言っても良い。練ろうとしているところも目的も,概ね同じです。だから,気功をやってその流れで太極拳をやるのは,極めて自然な感じで,身体的になんら違和感がない。

気功や太極拳はだから,坐禅(蓮の花のポーズでも良い)や寝禅(死体のポーズでも良い)とも,動かないというだけでリズムや気の流れは同じだし,この行為によって行こうとしているところ,しようとしていることは,概ね同じです。だから,太極拳の後に坐るのもまた,とても自然な流れで導入しやすい。

しかし一方,ここで次に空手となると,身体的な感覚として違和感が,どうしても拭えない。空手は外家拳です。つまり,外的な筋肉を使うし(もちろんインナーマッスルと言われる部分も大いに使うけれども),強く気を吐くし(中国武術的には「勁」を発するし),そもそも太極拳のようにゆっくり柔らかく動かない。息と言えば,気功や太極拳や瞑想では鼻で息を吐くけれども,空手では口で息を吐く。

太極拳は緩く柔らかくリラックスすることを求め,鼻で息をすることで気を体内に貯める。一方空手は力強く技を出すことを求め,口で息をすることで気を体外に発する。どちらも呼吸重視ではあるけれども,そしてどちらも武術ではあるけれども,理論が違う。闘うための理合が違う。

武術家としては,内家拳と外家拳,つまり,internal martial artsとexternal martial artsの両方を稽古することはたぶん,大いに意義があり,だから個人的には非常に有意義である。また,武道家としても,両者は,いずれも一人稽古であり,マインドフルネスを養うに十分であるから,これもまた個人的には矛盾はない。

しかし,これを他者に教えるとなると,話は違ってくる。研究会で求められるもの,あるいは授業で行う身体技法として提供するもの,という観点で行くと,気功と瞑想と太極拳には一貫性があるけれども,空手をここに含めると統一感が無くなる。

それは,空手の持つ剥き出しの武術性が理由のような気がする。

空手は,特徴としてはやはり,打撃でもって(それもできれば一撃でもって)相手を制する術です。投げる,押す,倒すも術にはあるけれども,握った拳骨(ティジクン,鉄拳)でもって,相手になるべく強い衝撃を加えることを目標とする。

ここに何とも言えない剥き出しの野生があり,これがどうもやっぱり,穏やかではない(笑)。万人に教える(提供する)身体技法としては,やや特殊性が強い。そんな気がする。要するに空手って,マニアックなのだ。たぶん。

例えば合気道や弓道や居合道などは,実際は相手を投げたり,武器を使ってたりと,冷静に考えればかなり痛いことをしている術なのに,野性味のない洗練された感じがする。これに対して空手は,泥臭さ,土臭さ,野性味,原始性,のようなものがどうしても拭えない。それはなぜか。

たぶん,それはきっと,拳骨で殴る術だから。

ではボクシングはどうかというと,ボクシングはグローブを手に付けてるところが,野性味を削いでいる気がする。リングという特定の場所で行うのも,スポーツ性を強く演出している。あれがもし,リングの上でないところで,グローブを付けずに行ったらたぶん,とても野生的で原始的だろう。

だから空手のこの剥き出しの野性味や原始性が,他の術より以上に,なんとも武術性を強く感じさせる。なので,太極拳と空手は,個人的には術として融合・統合するために研究する価値は大いにあり,またその旅は果てしなく面白いけれども,一方,他者へ提供する身体技法として融合させることにはあまり意味がないような気が,最近しています。

なお,こんなことを日々考えていることが,まぁ,これ自体,楽しいわけで,このことに深く悩んでいるとかそういうことでは決してありません(笑)。

2014年11月3日

大阪遠征

先週末の土日,11月1日と2日の2日間,大阪は弁天町にある,糸東流空手道宗家摩文仁賢榮先生の道場,養秀館本部道場(糸東流空手道本部道場)に,小林先生と柏道場の面々ともにお邪魔し,宗家じきじきに稽古をつけていただきました。


稽古後に摩文仁賢榮宗家とご一緒に

摩文仁賢榮宗家は,御年96歳(数えで97歳)ですが,とても元気でいらっしゃり,椅子に座りながらではありますが,立ち方から技の掛け方まで,身振り手振りでいろいろとご指導いただきました。

道場前にて

雨模様でしたが,その分蒸し暑さもあって,11月にもかかわらず半袖でも良いぐらいでした。

ここ数週間,季節の変わり目で気温が上がったり下がったりしたせいか,低調に風邪気味で若干体調が優れず,稽古は十分にできたものの,2日間とも稽古後に頭痛がして,それだけが災難でした。

賢雄副宗家と横山雅彦先生から,養秀館にのみ伝承されている「開手のナイファンチ」を教えていただきました。糸東流ではナイファンチは初段から三段まで三つありますが,これとはまた別の,つまり四つ目のナイファンチということになります。通常,ナイファンチは拳を握って行いますが,手の平を開いて行うナイファンチです。これは非常に良い形です。また非常に珍しい形ですので,今回の大きな収穫の一つとなりました。賢雄先生,横山先生,ありがとうございました。