2014年11月6日

空手の武術性

先週末,宗家の元を訪れ,いつも以上に増してじっくり空手に向き合う機会をいただき,改めて空手とは何かを考えるきっかけとなった。というのも,一方で気功・瞑想・武術(太極拳と空手)の研究会をしていて,空手の位置づけというものを常々考えていたからでもある。

空手は武術性が強い。太極拳に比べると,という話ではあるけれど。

スワイショウや八段錦や開合や站椿などの各種気功の技法は,太極拳と相通ずる,というかこの辺りは根っこが同じなのか歴史的に融合していてきたのか分からないけれど,基本的に同じ身体操作をしている。いずれも,気を練る体感は同じです。動作や呼吸のリズムあるいはスピード,流れが同じだと言っても良い。練ろうとしているところも目的も,概ね同じです。だから,気功をやってその流れで太極拳をやるのは,極めて自然な感じで,身体的になんら違和感がない。

気功や太極拳はだから,坐禅(蓮の花のポーズでも良い)や寝禅(死体のポーズでも良い)とも,動かないというだけでリズムや気の流れは同じだし,この行為によって行こうとしているところ,しようとしていることは,概ね同じです。だから,太極拳の後に坐るのもまた,とても自然な流れで導入しやすい。

しかし一方,ここで次に空手となると,身体的な感覚として違和感が,どうしても拭えない。空手は外家拳です。つまり,外的な筋肉を使うし(もちろんインナーマッスルと言われる部分も大いに使うけれども),強く気を吐くし(中国武術的には「勁」を発するし),そもそも太極拳のようにゆっくり柔らかく動かない。息と言えば,気功や太極拳や瞑想では鼻で息を吐くけれども,空手では口で息を吐く。

太極拳は緩く柔らかくリラックスすることを求め,鼻で息をすることで気を体内に貯める。一方空手は力強く技を出すことを求め,口で息をすることで気を体外に発する。どちらも呼吸重視ではあるけれども,そしてどちらも武術ではあるけれども,理論が違う。闘うための理合が違う。

武術家としては,内家拳と外家拳,つまり,internal martial artsとexternal martial artsの両方を稽古することはたぶん,大いに意義があり,だから個人的には非常に有意義である。また,武道家としても,両者は,いずれも一人稽古であり,マインドフルネスを養うに十分であるから,これもまた個人的には矛盾はない。

しかし,これを他者に教えるとなると,話は違ってくる。研究会で求められるもの,あるいは授業で行う身体技法として提供するもの,という観点で行くと,気功と瞑想と太極拳には一貫性があるけれども,空手をここに含めると統一感が無くなる。

それは,空手の持つ剥き出しの武術性が理由のような気がする。

空手は,特徴としてはやはり,打撃でもって(それもできれば一撃でもって)相手を制する術です。投げる,押す,倒すも術にはあるけれども,握った拳骨(ティジクン,鉄拳)でもって,相手になるべく強い衝撃を加えることを目標とする。

ここに何とも言えない剥き出しの野生があり,これがどうもやっぱり,穏やかではない(笑)。万人に教える(提供する)身体技法としては,やや特殊性が強い。そんな気がする。要するに空手って,マニアックなのだ。たぶん。

例えば合気道や弓道や居合道などは,実際は相手を投げたり,武器を使ってたりと,冷静に考えればかなり痛いことをしている術なのに,野性味のない洗練された感じがする。これに対して空手は,泥臭さ,土臭さ,野性味,原始性,のようなものがどうしても拭えない。それはなぜか。

たぶん,それはきっと,拳骨で殴る術だから。

ではボクシングはどうかというと,ボクシングはグローブを手に付けてるところが,野性味を削いでいる気がする。リングという特定の場所で行うのも,スポーツ性を強く演出している。あれがもし,リングの上でないところで,グローブを付けずに行ったらたぶん,とても野生的で原始的だろう。

だから空手のこの剥き出しの野性味や原始性が,他の術より以上に,なんとも武術性を強く感じさせる。なので,太極拳と空手は,個人的には術として融合・統合するために研究する価値は大いにあり,またその旅は果てしなく面白いけれども,一方,他者へ提供する身体技法として融合させることにはあまり意味がないような気が,最近しています。

なお,こんなことを日々考えていることが,まぁ,これ自体,楽しいわけで,このことに深く悩んでいるとかそういうことでは決してありません(笑)。

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