2014年10月2日

目を閉じる

さっき,自分の武道論のブログで,目を閉じて稽古する,というようなことを書きました。その方が身体感覚を鋭敏に察知できる,と言う話です。

坐禅の場合,「半眼」というのがあります。目を開けているような開けていないような,まぁ,実際はうっすらと開けているわけですが,何かを見ようとして見てはいない状態です。うすぼんやりと漠然と目を開けている,そんな感じ。曹洞宗の藤田一照禅師は著書『現代坐禅講義』の中で,確かそれを「マジックアイ」と称していました(なお,その意味については,是非,『現代・・・』を参照ください)。

目を開けていると,視覚情報がありますから,そこからあれこれと思考や感情が連想的に湧き出てきます。それをしないために,何かを見るようで見ていることなく,開けているわけです。これ,面壁しても,思考や感情が湧いてきます。内山興正禅師の言葉で言えば,まさに脳の分泌物。

僕の場合は,いつも自宅の部屋で壁を向いて坐るのですが,その,白い壁紙にはよく見ると模様や筋や肌理や傷があって,その微妙な陰影からロールシャッハのように物が浮かび見えてくるのです。

じゃあ,なんで目を閉じないんだ,という話になるわけですが,目を閉じると,場合によっては,眠くなってしまうからだというのが理由の一つでしょうか。だいたい,坐ってるという状態は,身体的には微動していますが大きくは動かないので,概ねじっとしていることになります。ここに腹式呼吸をしますので,深いゆっくりとした呼吸を繰り返します。やがて呼吸は長くなりますから,かなり深まってきますと,だんだんと眠くなる場合があります。ここで目を閉じていようものならそのまま心地よい眠りの世界へまっしぐら。とならないように,うっすらと目を開けておく,という説明の仕方があります。

しかし,上に書いたようにそれでも目には何らかの情報が入ってきますから,「マジックアイ」であることを維持しないと,視覚で得た刺激を人間は勝手にあれこれ解釈して思考を拡げます。刺激が少ないですから,脳はその物足りない状態を穴埋めしようとあれこれ手を打ちます。こうした作用がきっとあれこれ思考を分泌させるのでしょう。心は,何もしていないときに最もさまよいます。これがマインドワンダリングです。マインドワンダリングしやすい究極の形が,坐禅です。

となると,普通に考えれば,少しでもワンダリングしないように,目を閉じていたいわけです。そういう視覚情報をカットして,身体感覚,つまり,皮膚感覚や深部感覚や内臓感覚に意識を向けたいわけです。まさに,「微細な身体感覚」(藤田一照・山下良道『アップデートする仏教』)に内的な目を向けたい。そうするためには,目を閉じていた方がやりやすいわけです。

無論,何十年も修行している禅僧なら,そうして半眼で坐る方が難しいですから,そうしているのでしょうけれど,僕のような素人は,まずは目を閉じて坐るので十分なような気がしているわけです。だから,最近は,目を閉じて坐ってます。

カバットジンによるマインドフルネス瞑想の各種技法でも,瞑想するときに開けても閉じても良いと書いてあった気がするし,バンテ・グナラタナ師の本(『マインドフルネス 気づきの瞑想』)にも,場合によっては閉じても良いよと,書いてあったような気がする。サンティ先生も目は閉じて良い,ただもし,慣れてくれば半眼で,と言っていた。

ので,まぁ,だから,最近はずっと,閉じて坐ってます。それで,気功をするときも,ときに目を閉じていることがあります。もし,やっぱり「目は閉じない方が良い」という何か説得的な理由が見つかれば,開けようと思うけれども,そうでなければ,こうして目を閉じる方法で良いような気がするので,当面このまま続けようと思っています。お試しあれ。

0 件のコメント:

コメントを投稿