2015年4月19日

剛と柔2

たぶんティク・ナット・ハン師が本(『ブッダの幸せの瞑想』サンガ)で書いていたエピソードだと思う(バンテ・グナラタナ師だったかな,失念しました。まぁいいや)。

いつも通る道にある家のご主人,とても気難しい人物らしく,師がそこ(師にとって外国の地)に越してきて数年間,道で会っても無愛想にしかめっ面のまま挨拶さえもしなかったそうです。自分(師)が外国人だからかとも最初は思ったけれど,まぁとにかく,それでも会う度に笑顔で接したそうです。

すると数年後,目配せを返すようになり,こくりとうなずくようになり,笑顔を見せるようになり,やがて挨拶するようになり,とうとう会話をするようになり,身の上話までするようになった,という話。細部は違ったかもしれないけれど,だいたいそういう話です。(どうも,そのご主人,数年前に大病を患って,身体も心もふさいでいた,というのが理由だったような。たしか)

相手が固いからと言って,こちらも固く接してしまえば,もうそれで終わりになってしまいます。もちろん,相手が接したくない風であれば,無理に接することはない。かといって,コミュニケーションの窓口を完全に閉じてしまうのも,関係がギスギスしてしまう。普段接するようであれば尚更です。

相手が固いと,こちらもどうしても固くなってしまいます。ついつい,剛に対して剛で接してしまうのです。ネガティビティにはネガティビティで反応してしまうわけです。

だからといって間を詰めて,無理に相手の窓を開こうとはせず,しかしそれでいてこちらの窓は開いておくのが,良いような気がする。つまり,剛の相手に対して,常にこちらは柔でいること。押すわけでも引くわけでもなく,そこに柔らかくある。

固くあること,剛でいることは,えてして疲れます。きっとエナジーを過度に消費するんだと思います。過度に陽な状態ということです。そうではなく,エナジーを浪費せず,節約すること。save energy。Pang先生がそう言っていたとSteveが言っていました。そのSteveは,conserveって動詞をよく使って説明していました。貯蔵して保存して節約して大事に使え,ってことだと思います。

評価や価値に囚われることなく,そこに柔であることに,そんなにエナジーは必要ありません。ふわりと柔らかく。押すでもなく引くでもなく。

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