2022年2月23日

「悔しさ」という感情

今ちょうど,北京オリンピックが終わり,パラリンピックの開催を待っている時期ですが,負けた選手がそろって口にするのが「悔しい」という感情です。

この「悔しさ」って何だろうか,と改めて思いました。というのも,このところ将棋(ネット将棋)をずっとやっているわけですが,負けるのが悔しくて,勝負(対戦)を躊躇してしまう自分がいることを発見したからです。

やり始めた当初,ごくごく初心者のときはもう,負けるのが当然なので悔しいも何もあまり無かったわけですが,戦型やら囲いやら定跡やらを少しずつ覚えて,そこそこ勝てるようになってくると,負けるのが怖くなってきたのです。何が怖いのだろうと自己分析してみると,負けたときの「悔しさ」を覚えることが怖いのだろうと思い至りました。悔しい思いをしたくないから勝負をしたくない,ということです。

「悔しい」ときの自分を心身を振り返ってみると,胸が締め付けられるような苦しい感じ,心臓の鼓動が激しい感じ,繰り返すため息,うまく対応できなかった自分へのもどかしさ,相手への怒りに似た気持ち,巻き戻しできない過去への後悔のような感覚,といったところでしょうか。こんな状態が心地よいはずがありません。

「悔しさ」をバネに頑張る。次に向かって再び挑戦する。アスリートの言葉は力強い。きっと,ものすごく練習をしてきて,その結果が上手くいかなかったら,自分だったら相当凹むだろうと想像するがゆえに,その精神的な強靱さにつくづく感動と尊敬の念を抱きます。しかも,オリンピックの場合,4年に1回です。もちろん,一般人の自分が想像できないぐらい,負けたら相当に「悔しい」のだと思うけれど。

対戦相手がいれば,必然,相手への「怒り」も混じるでしょう。相手がいなければこんな思いにはならないわけですから,そんな思いをさせた相手への「怒り」に似た感情は生じるはずです。でも,通常は「怒り」の感情的要素はうっすらと抱くだけで,それは「悔しさ」の本質ではありません。だからこそスポーツマンシップとして,相手へのリスペクトができるわけです。ここができない人は,スポーツマンシップに欠けている人なわけで,たぶん,「怒り」成分が強くなってる人なのでしょう。「悔しさ」を履き違えてしまった人ですね。

しかし,やっぱり,負けるのは「悔しい」から,勝負を躊躇してしまいます。素人将棋の,しかも無料のネット将棋なんだから,適当にやれば良いんだけど,でも,やっぱりなかなかそうはいかない。ただ,負けることを恐れていては,その先には行けないことは分かっているわけで,いかに「悔しさ」を推進力に変えていくか,そこが重要なのでしょう。アスリートは,本当に凄い。

まぁ,しかし,自分だって,論文を投稿して返ってきたコメントが厳しいと「悔しい」思いをしますが,それをいかに乗り越えて間違いや過不足を認めて論文を修正して再投稿するか,というのをさんざん繰り返してきたのだから,同じと言えば同じか。将棋も同じ感じでやれば良いわけか。


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