2022年3月3日

勝ち負けへのこだわり

将棋は,勝ち負けにこだわるゲームですが,勝ち負けにだけこだわるととたんにつまらなくなります。

人間は,他者による自己の評価に強いこだわりをもっています。人間とは,「評価懸念する動物」です。評価の中でも,強い弱いはもっとも動物的かつ原始的本能的なものでしょう。つまり,勝つか負けるかにこだわりやすくできていますから,勝ち負けにこだわりだすとそのことだけに気を取られるようになります。

そんなことを,将棋をしながら改めて感じています。

禅やタオは,そういう,勝つとか負けるとか,強いとか弱いとか,高いとか低いとか,相対的な価値のモノサシから逃れることを提案しています。そういうモノサシ上で自己を測っている限り,苦しみから逃れることはできません。単純な話,そういうモノサシへのこだわりを捨てれば,苦しまずに済みます。

その点からすると,武道もまた,スポーツ化した現代の剣道や柔道や空手道ではなくて,形を中心に技を練ることを主眼とした稽古体系のもの,例えば,合気道や居合道や杖道,それから古流の(沖縄)空手などの方が良いと言えるわけで(拙著『空手と禅』他参照),本来,「武道」の「道」とはそういう意味合いを含んだものだと思うわけです。

ただ,スポーツ化した武道も,その稽古者が,競技(勝ち負け)を越えて技を練り始めるところまで行くと,それこそ本物の武道家のように思います。最近勝手に思っているのは,柔道の大野将平氏は,見ていてそういう志向性を感じます。

将棋こそ,勝ち負けを競う最たるものだと思いますが,ここから,勝ち負けを越えた別のもの,将棋という9×9のマス目の中で40枚のコマがいかに動いていくかのダイナミズムの美しさ(を体現することに自らがたずさわること)に主眼を置けば,常に楽しいのではないかと感じます。武道と同じく,相手と呼吸(気)が合わさったときには,買っても負けても清々しい気持ちで対局を終えることができます。

ただ,それもまた素人の(負ける)言い訳に過ぎないかもしれません。藤井聡太五冠など,すでにそういう,勝ち負けを超越した次元なのかと思いきや(そういう一面もあると思いますが),他を寄せ付けないほどの「強さ」への強烈なこだわりがあって,そこもまた彼の魅力でしょう。

負ける「悔しさ」が嫌で勝負することを躊躇する,と前回書きました。でも,盤上のダイナミズムが面白いから,やっぱり辞められず,懲りずに勝ったり負けたりヘボ将棋をしています。ヘボ将棋ではあるのですが,でもやっぱり負けると悔しいことが多い(笑)。さて,これをどう乗り越えていくかは,やっぱり,勝ち負けへのこだわりを越えて駒になりきることなのかなと思ったので,書きました。

たかが将棋,されど将棋。


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